いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

あっぱんまー

暖かい日差しが私たちを照らしていた。眼前の麦わら帽子は輝きを放ち、それをあご紐でとめた娘は、私の膝の上で真っ直ぐにステージを見つめていた。

 

ステージ上のおねぇさんが会場に向かって合図を送ると、娘は口元に両手をもっていき、少し遠慮がちに声をふりしぼった。

 

「あっぱんまー」

 

その声を聞きつけたに違いない。あっぱんまーが颯爽とステージに登場し、元気いっぱいに片腕を突き上げた。

 

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ゴールデンウィークも終盤に差しかかった。珍しく帰省をせずに家族三人で過ごしてきた今年の連休も、もうそろそろで終わりを迎えてしまう。

 

そんな昨日は、妻のママ友ファミリーと一緒に『ひらかたパーク』に遊びに行ってきた。今朝目を覚ましたときには、心地よい疲労感が身を包み、たくさんの想い出たちがよみがえってきた。

 

冒頭に書いた『あっぱんまーショー』にはじまり、『やなせたかしのあそべる絵本展』、『からくり屋敷』、『どうぶつハグハグタウン』、目的のひとつだった『生きものになれる展』では、妻と娘がダンゴムシバシリスク、ペンギンや蝶たちに変身した。

 

写真や動画に写る妻と娘はどれも幸せそうで、それらを見返すたびに私は頬を緩めてしまう。そんな二人はというと、さぞ疲れているのであろう、午前8時の現在もまだすやすやと寝息を立て眠っている。そんな景色を眺めていると、自分の頬が更に緩んでいくのを感じられる。

 

私がこのブログを書こうと思い立ったのも、このようなささやかなる日常をいつまでも忘れたくないと思ったからだ。何をやらせても物覚えの悪い私は、こうでもしない限り、どんどんと大切なものを忘れていってしまう。

 

日常に溢れる大切な瞬間が、かけがえのないこの思い出たちが、忘却の彼方へと消え去ってしまうその前に。私はここに文章として書き記していきたいと思ったのだ。全てを書き綴ることは到底無理であろう。しかし写真や動画と同じように、その時の思い出を呼び起こすキッカケくらいには、きっとなれるのではないだろうか。

 

どちらにせよ、忘却に対して何もしないよりはいくらかマシであるに違いない。そもそも文章を書くこと自体に幸せを感じられる私にとっては、この上ない方法ではないだろうか。

 

*****

 

帰り道。抱っこひもに包まれ私の胸で眠っていた娘が、もぞもぞと動き始めた。頭にかぶせ首を支えていたカバーを取り外してあげると、寝起きまなこを擦りながら、のっそりとこちらを見上げてくる。

 

陶器のようにつるりとした真っ白い肌。つぶらな瞳を可愛く縁取る長いまつげ。物言いたげに半開きとなったぷっくりとした唇。目の前に映るこの光景は何度見ても飽きることがない。抱っこひもをつける者だけに与えられた特権だ。

 

しばしぼんやりと宙を眺めていた娘だったが、しばらくすると再び私の胸に頭を押し当て寝息を立て始めた。そら疲れたであろう。あんなにも走り回ったのだから。

 

今寝過ぎたら夜眠れなくなっちゃうよ、と少し心配になりながらも、私は彼女を深い眠りへと誘うように優しく背中を撫でてあげた。その小ささを噛みしめるよう、足の裏に手を当てしっかりと包み込んだ。

 

電車の中には午前中に見たショーの広告が掲示されていた。娘の“あっぱんまー”が“アンパンマン”に変わる頃、また連れてきてあげたいなとしみじみと思った。きっと、その日はそう遠くないはずだ。

 

この小さな足の裏が掌に納まらなくなるのも、おそらく時間の問題であろう。そうなれば抱っこひもの特権を味わえるのも、あと何回あるかわかったもんじゃない。胸の奥にツンとした微かな痛みを感じてしまう。

 

私は隣に座る妻にばれぬよう、こっそりと娘の顔をのぞき込んだ。相変わらず口は半開きで、すやすやと眠っている。電車はがたがたと揺れていたが、そのテンポに対して少しだけ早く、娘は静かな寝息を立てていた。