いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

晴天の迷いクジラ

窪美澄の『晴天の迷いクジラ』を読了した。
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これで『アニバーサリー』、『水やりはいつも深夜だけど』に続けて3作連続で窪作品を読んだことになる。

 

読み終わった率直な感想を言うと、私は前に読んだ2作に比べると物足りなさを感じた。

 

しかし、これは作品がどうこうというよりも、私の読んだ順番に依るところが大きいであろう。

 

物語には、彼女にフラれ激務に追われたことで鬱を発症した青年と、激動の人生の末に作った会社が倒産寸前へと追いやられた女社長、神経質な母親に育てられ引きこもりとなってしまった少女、の3人がでてくる。

 

まずは3人の人生が丁寧に描かれていく。そして各自それぞれの理由で絶望を抱き、死ぬことを決意する。

 

しかしひょんなことから三人が出会い、沖に打ち上げられたクジラを見に行くことになる。そして、そこで出会ったクジラや、それを見守る町の人々との触れ合いにより、三人は「生きること」について見つめ直すことになるのだ。

 

ストーリーとしては、いつもどおりとても読み応えがあった。山田風太郎賞の受賞作品であるので、評価も高いのであろう。

 

でも文章や物語の“洗練さ”という意味で言うと、私がこの前に読んだ2作と比べると、やや荒削りな印象を受けた。

 

それもそのはず、この作品は筆者にとって2作目の小説だったらしい。前に読んだ2作は、もっと最近に書かれた作品だ。

 

書かれた順番と逆の順番で私が読んでしまったことで、文章や物語としてのクオリティが少し落ちたように感じたのだろう。

 

しかし逆に言えばそれは、この筆者が作品毎にしっかりと成長しているという証でもある。

 

彼女は自身の文章と創作力を磨き、常に“現在が最高”でありつづけているのだ。

 

常に“現在が最高”である人は素敵だと思う。

 

かくいう私も、人として、男として、そのような人物になりたいと思っている。

 

そう思えば、娘の可愛さは常に“現在が最高”だ。どの時点においても、今が一番可愛いと思ってしまう。

 

可愛い、可愛いと思っていた頃の写真を見返してみても、今のほうが更に可愛いな、と思ってしまうのだ。きっとお子さんをお持ちの方なら、共感いただけるのではないだろうか。

 

さて、少し話が逸れてしまった。とにかく窪美澄については、気になる最新作がでるたびに読むことにしようと思う。そうやって、常に最高の筆者を味わいたいなと、今作を読んで思った。

 

また、大衆文学を読みたいという欲求も、窪作品を3冊読んだおかげでやっとおさまってきた。

 

次は久しぶりに主食でもある純文学作品を読むことにしよう。カズオ・イシグロあたりを読み返そうかしら。