いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

【愛読書】日の名残り

カズオ・イシグロの『日の名残り』を再読した。改めて、私にとって大切な作品だという思いを強くした。
f:id:pto6:20180922074503j:image
言わずと知れたノーベル賞作家、カズオ・イシグロの代表作のひとつ。主人公である執事スティーブンスの流暢な語り口が心地よく、哀愁漂う物語が胸に響く。

 

この作品は様々な読み方をすることができる。読み返すたびに新たな発見があり、そこにある奥深い味わいには、ただただ感動を覚えてしまう。権威ある英国の文学賞ブッカー賞を受賞したのも心底納得できる作品だ。

 

一人称で語られ進行していく物語なのだが、彼の語りをそのまま受け取めるも良し、“信頼できない語り手”としてその裏にある真実を汲み取りながら読むのも良し、大英帝国の衰退を物語に重ねて読むのも良いだろう。

 

マニアックな人にいわせれば、細部に散りばめられた史実や実在の人物たちのパロディを探し、そこに秘められたブラックユーモアを堪能するという読み方もあるようだ。

 

そんな中で今回私は、作者イシグロが本作品で一番伝えたかったことはなんなのだろう、ということをぼんやり考えながら読んでみた。

 

『品格』を追求し敬愛する元主人への奉仕を尽くした執事としての誇り。以前の女中頭であるミス・ケントンへの思慕。それらを胸に、主人公スティーブンスは一時の暇をもらい、屋敷を離れて旅にでる。

 

彼は旅の途中、美しい景色や親切な人々に出会いながら、過去の記憶へと思いを馳せていく。栄光時代の輝かしい記憶、いつにおいても立派な執事として振る舞った思い出を、謙虚ながらもどこか誇らしげに語っていくのだった。

 

しかし、そんな彼の語りとは対照的に、旅における人々との会話からは不穏な空気が感じ取れる。主人公は言葉を駆使してなんとか読者を煙に巻こうとするのだが、私たちは彼の言葉の裏にある真実を、徐々に掴んでいく事になる。

 

彼が尊敬し誇りとまで語っていた元主人は、現代においては国を裏切った大罪人としての扱いを受けているということ。

 

当時その機会がありながらも、執事としての『品格』に固執し、元主人を盲目的に信じすぎたばかりに、過ちを阻止することができなかったこと。

 

女中頭ケントンと相思相愛だったにも関わらず、執事としての立場を優先するあまり、その関係を棒にふってしまったこと。

 

そして終盤、語り口は相変わらず紳士的で毅然としているにも関わらず、そんな過去たちへの“後悔”や“やるせなさ”、未来への“虚無感”が、その言葉の端々からにじみ出てくるようになる。

 

前半では言葉巧みに抑えつけ、ひた隠しにしてきた自身の感情が、振り返る過去の記憶、出会った人々との会話、ケントンとの久しぶりの再会により、もはや抑えきれなくなって表へと出てきてしまうのだ。

 

最終章、旅の最後に主人公は見ず知らずの老人と出会い、人生への後悔を口にし、涙する。

 

私が大切だと思い貫いてきた信念は、すべてを費やしたあの年月は、私のこの人生は、一体なんだったのだろうかと。

 

後悔しても過去には戻れない。気がつけばもうすっかり年老いて、仕事においても衰えを感じるばかり。私の目の前にはもはや、果てのない虚無がただただ広がっているだけではないか。

 

そんな主人公に対し、見ず知らずの老人は優しい言葉をかける。「夕方が一日でいちばんいい時間なんだ」と彼は言うのだ。その言葉により、主人公は小さな救いを手に入れる。

 

人生における夕暮れどきの今、悲観するばかりではなく前を向いて生きていこう。そう胸に誓うように、彼は新しい主人の屋敷へと帰っていくのであった。

 

この物語は本当にいろいろなことを教えてくれる。そのメッセージは皮肉とも、教訓とも、賛美とも捉えることができ、読む人によっては喜劇にも悲劇にもなるだろう。

 

そのように多様な読み方を許容する懐の深さ、それこそがこの作品の一番の魅力ではないだろうか。

 

今回の私は「固く考えすぎずに柔軟に生きて、後悔が少ない人生にしたい。でもどんな人生であれ、前向きに生きている限りは後付けででもその意味はきっと見いだせるはずだ」という、比較的ポジティブな感想をもった。

 

この本については、また定期的に読み返していきたいと思っている。きっともう少し歳を重ねたときや、なにかしらの後悔が生まれたときに読むと、さぞ違った感想を抱くのだろう。

 

ちなみに私は、年老いた人が醸し出す哀愁がたまらなく好きだ。そういう意味では、この物語は極上の哀愁を味わうことができる。哀愁好きな人には、是非ともおすすめしたい作品だ。

 

文章も物語もまちがいなく一級品。これからもこの作品とは一生をかけて付き合っていきたい。