いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

伝えたい、わかりたい

娘はおしゃべりだ。

 

2歳になりたてなので、まだまだ言葉を自由に使いこなせてはいないのだが、それでもいろんな事について自分の言葉で語りたがる。


昨日私が会社から帰ると、娘はお風呂から上がったところだった。いつもなら私と一緒に入るのだが、妻曰く、今にも寝そうな状態だったので早めに済ませたとのことだった。

 

なんでも、夕方に妻のママ友が遊びに来ていたようで、娘は同い歳の友達と先ほどまで遊んでいたらしい。

 

それがとても楽しかったようだ。濡れ髪の娘は興奮気味に、私に向かってそのときのことを話はじめた。

 

もちろんほとんどの言葉は聞き取れないのだが、たまに出てくる単語や身振り手振りで、そのときの話だということだけはわかった。

 

「○○ちゃん、○×△☆♯♭●□▲★※して、▲▲ちゃんが、○×△☆♯♭ってたら、●□▲★※って、○○ちゃん、はいっていって、▲▲ちゃん、ぼーんってって、●□▲★※なった。♭●□▲★※は、○×△☆♯で、しゅーって、▲★※して、ぐいってなって○○ちゃん、○×△☆♯♭った。」

 

実際はもっと長かったかもしれない。過去最高くらいに長い独白だった。残念ながらそのほとんどを理解することができなかったのだが、一生懸命パパに伝えようとする娘の熱意は伝わってきた。

 

言葉も文法もわからないながらに、それでも自分なりの言葉を駆使し、相手に伝えようとするその姿勢には、毎回感動を覚えてしまう。

 

自分なら言葉が通じない外国人に対して、ここまで思い切って話すことができるだろうか。おそらく最初から伝えることを諦め、話すことにすら挑戦しないのではないだろうか。

 

娘は相手に伝えたいと強く思っている。それゆえに、相手に伝わった際にはとても嬉しそうな顔をする。

 

私はそのときの輝く目と満面の笑みが大好きだ。それを見るために、毎度なんとか理解しようと試みるのだが、昨日のそのときは残念ながら満足な理解を示すことができなかった。

 

私が「そうかよかったね、▲▲ちゃんと一緒に遊べて楽しかったね」と無難な返しをすると、「うん・・・」と一応は頷いてくれたものの、娘の満足度で言えばイマイチだったようだ。

 

「う~ん、伝わらなかったな、なんて言えばいいんだろう」、そんなとき娘はそのような思案顔を浮かべる。

 

諦めず表現を変え、再び伝えようと試みることもあるのだが、昨日のそのときは伝えたい内容が長すぎたのか、再度トライすることはしなかった。

 

私はとても悔しい気持ちになった。娘が一生懸命伝えようとしていることをわかってあげられなかった。娘に残念な気持ちを味わわせてしまった。

 

伝えようとして相手に伝わらなかったときの悲しさは尋常ではない。その辛さがわかるからこそ、私は強く胸を痛めるのだ。

 

娘の「伝えたい」と私の「わかりたい」。お互い意思疎通をしたいという想いは一緒なのに、それが達成できないという焦れったさ。

 

でも考えてみれば、このような焦ったさは娘がこの年齢の頃にしか味わえないものなのかもしれない。そう思うと、この感情さすらも愛おしく感じてくる。

 

きっとこれからも娘は「伝えよう」とすることをやめないだろう。もちろん私も「わかろう」とすることをやめるつもりはない。