いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

太陽の塔が好きだという話

大好きな太陽の塔について書く。

 

昨日、森見登美彦の小説『太陽の塔』についての感想を書いた後に、家族を引き連れ、実際に万博公園へと遊びに行った。久しぶりに太陽の塔を見たい、そんな衝動を抑えきれなかったのだと思う。

 

現在私は、万博公園のある吹田市に住んでいる。マンションから公園までは電車で20分、自転車でも行ける距離だ。別に太陽の塔が理由でこのマンションを選んだわけではないのだが、それでも、やはり同じ町に住んでいると嬉しいことも多い。

 

家に送られてくる市の情報誌をはじめ、いたる処で“町のシンボル”としての太陽の塔を目にできるのだ。最も顕著なのがマンホールだろう。道を歩いているだけで、足下に可愛らしい太陽の塔をいくつも発見できる。私はそれを見るたび、幸せな気持ちになるのであった。

 

そんな太陽の塔の実物を昨日は見てきた。前の家に住んでいた頃は電車で向かう窓越しでの再会となったが、今の家からのルートだと駅を降りてからしか見られない。私は逸る気持ちをおさえ、娘を抱きかかえたまま、その姿が見える場所まで早歩きで進んだ。

 

いつだってそれは、目の前にどどんっと現れる。威風堂々。悠然で偉大な佇まい。どっしりとした存在感。私は毎回ひとめみるたびに、ぞわぁっとした感情が胸に渦巻くのを感じる。そして「また会えた」という恍惚な喜びも、それと同時に湧き上がるのだった。


娘は太陽の塔のことを『おっきい』という名で認識している。これは彼女が太陽の塔との初対面の時、塔の真下から見上げながら「おっきいねぇ、おっきいねぇ」と、私と一緒に言い合ったことに起因する。

 

それ以降、彼女はいろんなところで太陽の塔を見かけるたびに、「ぱぱ、ほら、おっきい、いたよ!」と私に嬉しそうに報告してくれるのであった。きっと私が大好きなのも、彼女は感じ取ってくれているのであろう。

 

妻はというと、太陽の塔にはさして感心をもっていない様子だ。そして異常なまでに愛情を寄せる私に、若干ひいているそぶりを見せている。

 

彼女に何がそんなに良いかと問われると、「完璧だから」というしかない。なんの基準で?と言われても困ってしまうのだが、とにかくそう表現する以外ないのだ。

 

芸術として。モニュメントとして。塔として。とにかく、こんなにもトキメキを与えてくれる存在を、私は他に知らない。

 

何度見ても飽きがこない、というのも好きな理由のひとつだろう。毎回見るたびにハッとさせられ、感動が衰えることがない。たとえ実物でなくても、そのフォルムを見るだけで私は高揚感に包まれてしまう。

 

そんなわけで、昨日はついに念願のフィギアを購入した。自分専用の本棚を買った時から、そこに飾ることを夢見ていたものだ。
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フィギアが欲しいと思ったことも、実際に買ったことも、これが生まれて初めてのことだった。手にしてみると、なかなかいいものだ。他の好きなもののフィギアも、一緒に飾りたい気持ちが湧いてくる。

 

このフィギュア、実物の1/350のサイズで、ディテールまでしっかりと作られており、眺めるたびにときめきを与えてくれる。

 

きっとこれから、私をたくさん励ましてくれるだろう。