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文学パパが綴るかけがえのない日常

充たされざる者

カズオ・イシグロの『充たされざる者』を読了した。
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900頁を超える超大作だ。これまでに私が読んだ文庫本の中で一番分厚かった。イシグロ作品をすべて読破しようとしている人に、立ちはだかる最大の壁であろう。

 

私も一番最後に読もうかとも思っていたのだが、この前に読んだ『遠い山なみの光』でイシグロ熱が再発したことを受け、その勢いのまま挑戦してみることにした。

 

最初に書いておくと、この本は万人にはお勧めしない。

 

普段から読書に、それも純文学の作品に慣れ親しんでいる人で、且つ、書き手としてのイシグロにその他作品を通して既に信頼を寄せている人。この作品はそんな人たちが満を持して手にすべきものだと、私は思う。

 

そうでなければ、間違いなく途中で挫折してしまうだろう。ただでさえ物語として長いのだが、それだけではなく、書き方は実験性に富んでおり、一見して支離滅裂な形で物語が進んでいくのだ。

 

更に言うと、ページを捲れど捲れど物語は一向にして先へと進まず、大きな展開もないままに、話は横道にばかり逸れていく。あらすじを書いてみるとこうだ。

 

世界的ピアニストの主人公が、問題を抱えたとある町に到着する。彼は催しで演奏と公演をするはずだったのだが、次々と舞い込む雑多な頼まれ事に翻弄されているうちに時が過ぎ、結局は何もせぬまま町を去って行く。

 

どうだろうか。こんな物語を、しかも900頁も読んで面白いと思うだろうか。しかし、不思議なことに、条件にあった特定の人にとっては、これが最高に面白いのだ。

 

私も読み始めは、とても不安な気持ちを抱えながらに読んだ。珍しく眠気を誘われるほどで、このペースなら読み終えるのはいつになるのかと先の見えぬ思いだった。

 

しかし、時間や空間が歪むこの世界観を受け入れ、次々と登場する人物達の意味するところに思い当たる節を見つけると、読み進めていくのが急に面白くなっていく。

 

私はその分厚い本を、旅行先にまで持って行き、ひとり黙々と読み続けていたほどだ。それほどまでに、この物語を読むことが、主人公と一緒にこの世界を彷徨うことが、一種の快感にまでなってくる。おそらくは、私がこれまでに味わったことのない読書体験であっただろう。

 

読み終えた今は、この超大作を読破したという達成感と、もう初見ではこの世界を彷徨えないのかという一抹の寂しさが、胸に同居している。全員には決してお勧めできないのだが、誰かと共有し、その面白さを分かち合いたい。そんな独善的な欲望に駆られている。

 

ブッカー賞という英国で最も権威ある賞を獲った後に、このような実験的な作品を発表したイシグロには敬服する。当然、評論界でも賛否両論が巻き起こったようだ。

 

しかし私は思う。この作品で殻を破り、革新的な変化を自らに課したからこそ、その後イシグロはノーベル賞を獲るまでの作家になったのだと。こんなにも滅茶滅茶なのに精巧で、退屈なのに面白い作品を書ける作家は、世界広しといえど、他にはいないのではないだろうか。

 

今作で読み終えたイシグロ作品は計6冊。残す作品は2冊だけとなった。このまま読み続けていきたいところだが、ぐっと我慢して、できるだけ後の楽しみにとっておきたいと思う。次の新作発表もいつになるだろうか。