いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

フラニーとズーイ

J.D.サリンジャーの『フラニーとズーイ』を再読した。
f:id:pto6:20190921084717j:image
この本は発売直後(2014年)に買って読み、それ以来2度目の読み返しだ。とあるネット記事で紹介されているのが目に止まり、久しぶりに読んでみたくなった。

 

翻訳をした村上春樹も語っているように、この小説は文体がすべてだ。文章による芸術、つまりは文学的な純度を極限まで高めようという志のもとに書かれている。

 

それゆえに、そこに大衆的な面白さは皆無だ。起伏あるストーリーを求める一般的な読者には、この作品を手に取ることをお勧めしない。

 

正直なところ、純文学作品を普段から好んで読んでいる私にしても、読み返してみるとこの本のとっつきにくさを改めて痛感させられた。『求神性』をテーマとして扱っているがゆえなのだが、とにかく“宗教臭さ”が全編を通して漂っているのだ。

 

しかし、それでもやはり、その魅力的な文章の力だけで、結局は最後まで読まされてしまった。特に私は、地の文におけるさりげない描写に心奪われ、気に入った表現はメモをつけながらに読んでいった。

 

例えば、こういった文章たちだ。

 

「素敵そうね」と彼女は熱意を込めて言った。ときどき彼女は、世間の男たちが見せる手際の悪さに対して—とりわけレーンのそれに対してー苛立ちを隠すのがひどくむずかしくなる。

 

つまり彼は顔に泡を立てながら鏡を覗き込んでいるのだが、彼がまっすぐ見ているのはブラシの動きではなく、自分の両目なのだ。まるでその目が、彼が七歳か八歳のときから従事しているナルシシズムとの私的な戦争における中立地帯であり、無人地帯であるかのように。そして二十五歳になった今では、そこにおけるささやかな戦略はおおむね反射的なものになっているみたいだ。バッターボックスに立ったベテランの野球選手が、必要のあるなしにかかわらず、バットでスパイクをとんとんと叩くように。

 

ミセス・グラスは少し遅れて鼻を鳴らした。「背中に見とれないでくれだって?よく言うね!」と彼女は言った。しかし彼女は侮辱されたように感じ、ちょっぴり傷ついた。彼女は息子がソックスを履くところを眺めていた。その顔には傷つけられたという思いと、選択したソックスに穴が開いていないかどうか長い歳月にわたって点検してきた人間の抑えがたい感心とが入り混じった表情が浮かんでいた。

 

上記のような表現に、なにかしら面白みを感じる人であれば、本作を読んでみてもよいかもしれない。私も文学への理解がより深まったなら、また挑戦をしてみたい。