スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を再読した。これで読むのは5回目くらいだろう。
この作品は、村上春樹が生涯で最も重要な小説だと語っていることでも有名だ。なにを隠そう、私がこの本を最初に読んだのも村上があまりに絶賛するからだし、彼が目標に掲げる『完璧』な小説に興味を持ったからだ。
しかし正直なところ、読んだうちの最初の2回ほどは、この物語の良さにあまりピンとはこなかった。初めて読んだときは拍子抜けし、「言うほどの作品か?」と懐疑的な感想を持ったことを覚えている。
しかし、あの村上があんなにも言うのだからと、折に触れては手に取り、時間をおいては読み返し続けた。すると、3回目くらいからだろうか。この小説の「素晴らしさ」を徐々に理解することができるようになった。
それはその間私が歳をとり、人生において様々な経験をしたことで、人として成長したというのもひとつだろう。また色々な本を読み、文学というものの味わい方を心得てきたという見方もあるかもしれない。もしくは、物語がすっかり頭に入ったことで、それを奏でる文章へと注意を払う余裕ができたということもあるだろう。
いずれにせよ、その頃には『村上春樹にとっての重要な作品』から『自分にとっての重要な作品』へと、その価値がすっかりと格上げされていたわけである。
そしてこの作品は、読み返すたびどんどんと好きになっていくという希有な特性を持っている。今回も読んでいて、これまでで一番の恍惚感を味わうことができた。
また、数年前にデカプリオ主演の映画を観たことで、映像がより鮮やかに浮かび、その煌びやかな世界観に一層酔いしれることができるようになったと思う。
この物語は、読み返すたびに人間の愚かさと美しさを改めて教えてくれる。その切なさに身を震わされ、不可避のやるせなさに襲われる。それでも、一人の男の人生を、この上なく愛おしく感じさせてくれるのだ。
彼は幸せだったのか、不幸せだったのか。そんなことは誰にだって答えられないだろうし、そもそも答えなんてものは存在しないだろう。そこにこそ私は人生の機微を感じるし、生きることの醍醐味を再確認させられる。
私はこの後の人生においても、この“偉大なる”物語を何度も繰り返し読むことになるだろう。そしてそのたび、このような甘美な余韻に包まれることは間違いない。