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わたしたちが孤児だったころ

カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を読了した。作者の5作目にあたる長篇小説となる。
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新年最初の読書として、信頼を寄せるイシグロ作品を選んだ。読み始めてすぐにその判断が正しかったことを悟る。相変わらずに澄んだ筆致で、冒頭からその世界に引き込まれた。

 

探偵小説もののような書かれ方をしているが、内容は純文学だ。しかしミステリ特有の推進力が具わっており、その他の作品と比べてもページを捲らせる力が強い。

 

イシグロ作品においてよく用いられる「自己防衛のための記憶のねつ造」が今回も一人称の語り部である主人公によってなされており、所謂「信頼できない語り手」が物語を導いていく。

 

それらの要素は1作目から3作目(遠い山なみの光浮世の画家日の名残り)までの作風と似ている。


ただ中盤からは、物語は大きな展開を向かえ、混沌とした不可解な世界へと主人公が足を踏み入れていく。ここらへんで感じる奇妙な雰囲気は、四作目(充たされざる者)ととても類似している。

 

つまり、なにが言いたいかというと、5作目である本作は、それまでの作品で磨き上げた武器たちを総動員し、複合的な物語として立ち上げているように見えるのである。いわば、この時点におけるイシグロの集大成だ。

 

私の勝手な推測に過ぎないのだが、その考えを裏付けるかのように、次の作品以降、イシグロはこれまでとは異なる作風にチャレンジしていく。

 

次の6作目(わたしを離さないで)ではSFの要素を取り入れ、続く7作目(夜想曲集)は初となる短編集だ。最新8作目(忘れられた巨人)だけは唯一未読だが、ファンタジー仕立ての物語だと聞いている。

 

なにはともあれ、この本もとても楽しく読み終えた。

 

なぜこんなにも複雑な話を、こんなにも読みやすく読ませられるのだろうか。彼の文章には透明感があり、その上に視線を走らせるだけで、無理なくすっと身体に取り込まれてくるかのようだ。比類なき文章力である。

 

これで8作中7作を読み終えたがどれも高水準の作品で、やはりノーベル文学賞作家は伊達じゃないと思い知らされた。大好きな作家だ。残り1作もよりよいタイミングで読むことにしよう。そして次の新作も待ち遠しい。