いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

乳と卵

川上未映子の『乳と卵』を読了した。

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この本は、村上春樹との対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』で著者に興味を持ち、しばらく前に購入していたものだった。


しかし、実は一度途中で読むことを挫折している。


そんな本を先日、引っ越しの荷詰めをしている最中に見つけた。新居へと持って行かない本達は実家へと送ろうとしていたので、せっかくならしっかり読み終えてから送ろうと、数日前、再読を試みたのだ。


今回なんとか最後まで読み切れたのだが、やはりそのクセのある文体には終始なじめず、なんども挫折しかけた。前述の村上との対談でも語られていたが、やはりこの作品は「文体がすべて」と言えるほど、とにかく特徴的な文体で書かれている。


そもそも人に伝えることに配慮のない“頭をめぐる思考”を、できるだけ忠実に写しだしたような文章。それゆえ、句読点も適切に打たれていないし、1文がだらだらと長いし、思いつきで色んな話題が飛び込んでくるしで、とにかくリズムをとるのに苦労した。


もちろん、それらは前衛的な野心に導かれ計算に基づいた上で書かれている。ただ意味もない駄文、というわけではないのだ。現に、そのアプローチが評価され、本作は芥川賞を受賞している。


私としても今までに経験のないその特徴的な文体に、新鮮な驚きを覚えた。ただ個人的な好みではない、というだけの話なのである。やはり私は“人に伝えること”に配慮のある、明瞭な文体が好みのようだ。


それにしても「文体」というのは実に奥深い。

 

この作品ではその語り口をなぞるだけで、主人公の実像がくっきりと浮かび上がってくる。ずぼらで、場当たり的で、思慮は浅いがどこか暖かみのある性格が、描写がなくとも、文体だけで伝わってくるのだ。


「文体」だけで、ある程度どんな人が書いたのかという想像が巡らせられる。もちろんあってる、あってないは実際にはわからないのだが、「文体」にはその想像を信じ込ませてくれるだけの説得力があるように思う。


果たして、このブログを読んでくださっている方々から、私はどのような男と想像されているのだろう。この本を読んで、そんなことが少しだけ気になった。