いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

パパったら

娘に言われると思わず嬉しくなる言葉がある。

 

「もう、パパったら」という言葉だ。昨日はその言葉を妻と娘に同時に言われ、とても上機嫌になっていた。

 

当然、呆れられた際に使われる言葉なのだが、そこには「親しみ」と「情愛」の念がにじみ出ている。

 

なにより「ったら」がいい。その後には「しょうがないんだから」なり「しっかりしてよね」なり、愛ある言葉が続くのが想像できるし、それを言わずに飲み込むところにも、相手への配慮と奥ゆかしさを感じさせられる。

 

娘が言葉をしゃべりだす前から、私は妻に「早く娘に叱られたい」という願望を伝えていた。よくドラマとかである、しっかり者の娘と少しだらしない父親のような関係性をずっと夢見ていたのだ。

 

娘は父親に甲斐甲斐しく注意しつつも、心の中では尊敬と感謝を抱き、いざとなれば助けてくれると信頼している。父親はそんな娘からの愛情と信頼を感じつつも「どんどん母さんに似てきたな」なんて小言を言いながら、なんだかんだ娘の言いつけどおりに重い腰をあげる。

 

私が妄想している将来の娘との関係性はそのような感じである。そしてそれに向け順調なスタートをきっていると思っている。ただ油断は禁物だ。バランスを間違え、あまりに娘を呆れさせてしまうと、口も聞いてもらえない、嫌われバッドストーリーがすぐさま浮上してくる。

 

そういう意味でも「ったら」がひとつの目安になるだろうと思っている。娘が私に対して呆れたときに「ったら」が付かなくなってきたら、黄色信号だと心得よう。