いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

おともだちになりたいの

娘は公園を『お友達をつくる場所』と捉えている。

 

昨日も公園へと向かいながら、「おともだち、いるかなあ、だれかいるよね」なんて呟きながら歩いていた。

 

公園につくと娘はひとり遊びながらも、まわりに視線を走らせ同年代の子どもがいないかを探していた。めぼしい子がいれば、男女問わずに積極的に話しかけていく。

 

「こんにちはー、ぼくは○○ちゃん、よろしくー」

 

いきなり隣に並んで遊び出し、このように声を掛けられたら面食らうだろう。現に、昨日声をかけられた子どもたちは、誰もが戸惑いの表情を浮かべていた。

 

娘の中でも、これまでの成功体験を活かそうという思惑があるようだ。先日うまくお友達になれたときは、挨拶と名前を交換したことで仲良くなれた。その経験から、娘はこのような入り込みトークをしかけたのだろう。

 

一人称「ぼく」は、そのたびに注意してあげた。ただ「わたし」より「ぼく」の方がそら言いやすいよなあ、と指摘しながらも共感を寄せてしまった。

 

その他にも、自分のオモチャを貸してあげて仲良くなった例もあったので、自分がもってきたストライダも、求められてもいないのに貸してあげようともしていた。

 

「これ○○ちゃんの、のってみる?きっとたのしいよ」とお勧めする娘がいじらしく、それを断られるたびにとても不憫に思えた(娘は平気そうだったが)。

 

結局、昨日は残念ながら成果なしだった。ただ、ほとんどの場合、付き添いの親御さんたちには娘はとても可愛がられる。明るくて、ニコニコしてて、挨拶のできる感じが受けているのだろう。それに自分の子と友達になりたいという子が現れたら、悪い気がするはずがない。

 

「ちょっとまてよ、おともだちー」
「おともだちになろうよー」

 

何度も繰り返された娘の声かけが、今でも耳に残っている。家へと帰りながら「ああ、おともだちになりたかったなー」と残念そうに呟く娘がとても愛おしく思えた。

 

このままの性格で大きくなったら、はたして娘はどんな子になるのだろうか。少し見るのが怖くもあるのだが、底抜けに良い奴であることには違いなかろう。