いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

「これは、だあれ?」

画面を指さしながら、娘が首をかしげた。

 

君だよ、と教えてあげると、娘はぽかんとした表情でふたたび画面を見つめた。理解が追いついていないので、しっかりと言い直す。赤ちゃんのときの君だよ、と。

 

昨夜、ハンディカムで撮った昔の映像をみんなで見返した。きっかけは、自分がどのように生まれてきたのかを、娘が知りたがったことだった。妻が教えてあげる。

 

「ママのお腹の中に入ってたんだよ」
「ままのおなかに?はいってたの?」

 

驚きと戸惑いを浮かべる娘。妻はお腹が膨らんでいた頃の写真を見せてあげようとしたが、私も妻もスマホを当時から買い換えていたため、古い写真や動画は手元にはなかった。そこでハンディカムを持ち出し、テレビに繋いで鑑賞会を開くことにしたのである。

 

大きなお腹で公園を歩く妻の映像があった。それを食い入るように見つめる娘。やだ太ってる、と恥ずかしそうに呟く妻。娘は妻になんども確認をとっていた。

 

「あのおなかに、○○ちゃん、はいってたの?」
「そうだよ」
「おもかった?」
「重かったよー」

 

動画は連続で再生され、画面には生まれたばかりの娘が映し出された。冒頭に書いたように、娘にこれは君だよと教えてあげる。ただ娘はにわかには信じなかった。

 

「これ、○○ちゃんじゃないよ?」
「○○ちゃんだよ」
「○○ちゃん、あかちゃんじゃないよ?」
「昔は赤ちゃんだったんだよ」
「○○ちゃんの、あかちゃん?」
「いや、赤ちゃんだったころの、○○ちゃん」

 

結局、理解したのかしていないのか。しばらくすると、もっと大きくなった自分の映像が見たいと駄々をこね出した。自分と似ても似つかないものを自分だと言われ、その釈然としない感じに堪えきれなくなったのだろう。

 

妻と私は赤ん坊時代の娘をとろんとした目で見つめていたのだが、娘に従い少し先の動画まで飛ばした。1歳にまでなると、すっかり今の娘と同じ顔つきをしていた。

 

しばし懐かしさに包まれた時間であった。やはり動画に残しておくというのはいいことだ。また見返したいな。