いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

久々に味わう仕事の充足感

久々に充実感を纏った清々しい金曜の夜である。

 

今週はようやくまともな働きができた。転職に伴う有休消化と入社後の準備期間を経て、実に4ヶ月ぶりくらいとなる仕事での充実感である。

 

今朝は上司のフィードバックから1日がスタートした。昨日報告していた資料、概ねオッケーであったが、私がゼロから作成した資料の一部に修正の依頼が出た。ざっくりとした変更の指示。それでも指示の背景や意図は理解できた。

 

さっそく作業を開始する。昨日はゼロから資料を立ち上げる苦しさがあったが、今日はそれに上司からのコメントを踏まえ完璧に仕上げるという難しさがある。

 

意外と、資料を8割の完成度でスピーディに作る作業の方が楽しいものである。ただそこから詳細に精査を重ね、すべての配置や色、言葉のひとつひとつに意味を持たせ、端々にまで神経を張り巡らせる作業は、地味な根気が必要となってくる作業だ。

 

制限時間は午後15時まで。昨日同様にざっくりとした時間のマイルストーンを決め作業に向き合った。

 

指摘された点を基に、再度腰を据えて自分の作った資料に向き合う。このページの意図を踏まえると、たしかに改善が必要な点がいくつか見つかった。ポイントを効果的に見せるため、大手術ではないが資料上の構成や順番も変えた方が良いと思えてきた。

 

順番については、前日に自分の考えに基づき、敢えてお手本としていた過去資料から変更を加えていた箇所だった。昨日の自分には、どうしてもその部分における説明の順序性がしっくりとこず、そこだけは踏襲せずに独自のフォーマットを使ったのだった。

 

ただ一夜明け、改めて頭を整理し説明のポイントを捉え直すと、悔しいかな、過去資料における項目の順序性がもっとも効果的かつ説明に沿った並びになっていることが理解できた。

 

過去資料も何度も精査を重ね、何人ものプロの目をくぐって完成させられた資料である。合理的なものになっていて当然だ。悔しいが私は一日を経て、やっとその境地に追いつくことができた。

 

ただ理解しないまま単に過去資料を踏襲するよりはマシだったと思う。そんなことをすればこの気づきもなかったし、真の理解を得られぬままであったに違いない。そして何より、昨日の自分では届かなかった領域まで踏み込めたことに、成長を感じられ嬉しかった。

 

本質を掴めたことで、その後は想定よりも早い進捗を見せた。フォーマットが固まると、あとはそこに言葉をはめこんでいく。午前中のうちに9割5部の完成度となった。これで報告したい気にもなったが、昼食を挟み、一度時間を置いてから再度見直すことにした。

 

昼食後、リフレッシュされた頭で改めて資料に向き合うと、いくつか文章の改善点が見つけられた。言葉選びを精査し、より適切で端的な表現に洗練させる。期限ギリギリまで使う予定だったが、13時過ぎの時点で、これ以上の手直しは不要と思えるほどに納得できる完成度まで仕上げられた。

 

上司もこの時間なら打合せが入っていなかった。すぐさま資料を報告し再レビューをお願いする。数分後に返信が来た。「ありがとうございます。問題なく、いい感じになっております」。私の資料も最終資料に反映されており、一切の手直しもされていなかった。

 

これまでの苦労がすべて報われた思いだった。

 

その後は、自分の担当したページ以外の確認をお願いされたので対応した。いくつかの誤字や修正箇所を発見し、その点でも上司から感謝を告げられた。

 

この資料に関するオーダーは、おそらくこれで完了であろう。初めての仕事は、私に少しばかりの自信をもたらせてくれた。手前味噌だが、初稿時点でのなかなかの精度と、ざっくりとしたフィードバックを適切に捉え、資料反映できる点は評価されただろうという手応えを覚えた。

 

早朝から業務を始めていたので、その後はゆっくり長めの休憩をとった。メリハリがつけられるのが裁量労働制のいいところ。夕方に少しだけデスクワークをこなし、定時を過ぎたところで今週の業務を終了した。

 

労働による充足感を久々に味わっていた。仕事が楽しい、そう思えたのは何年ぶりだろうか。今週末は、いつもよりも気分良く、過ごすことができそうである。