いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

ティッシュに纏わる思い出

ティッシュを使う時にたまに思い出す記憶がある。

 

それは小学校の中学年における記憶だ。私は当時仲の良かった友人宅にお邪魔し、ミニ四駆で遊んでいた。そのお宅には、家中を占拠するほどのミニ四駆コースが置かれており、その頃は頻繁に遊びに訪れていた。

 

また、そこで振る舞われるお菓子がお母さん手作りのポテトチップスで、それが揚げ立てでとにかく美味しかった。毎回ではなかったので、次はいつ出してもらえるだろうか、と子供ならではのスケベ心を抱えて、その家に通っていた記憶もある。

 

そんな友人宅でのある時。お菓子を頂いている際、何かの拍子にコップを倒し、床にお茶を溢してしまったことがあった。そのとき私はギョッとして、すぐに拭かねばと、近くにあったティッシュボックスから勢いよく何枚ものティッシュを抜き出した。

 

すると、友人が慌てて私を制して、そんなにティッシュを使っちゃダメだよ、と真顔で注意をしてきた。手に取ったティッシュは回収され、代わりに使い古された別の拭き物によって床のお茶が拭きとられた。

 

私の手から回収されたティッシュは大事そうに仕舞われ、別の機会に使おうとしていることがわかった。その後の記憶は曖昧ではあるが、ティッシュの使い方については、再度彼から諭されたように記憶している。

 

そのとき受けたカルチャーショックが子供ながらに印象深かったのか、25年程経った今でも残っている。

 

その当時は、その事象を今と同じようには捉えきれていなかったように思う。家庭によるルールの違いと、その徹底ぶりに感心を覚え、少しばかり圧倒された程度だっただろう。

 

ただ今なら、より正確にその友人宅の状況を推し量ることができる。

 

家中を覆い尽くすほどのミニ四駆コースは、コースが大きかったからではなく、それだけ家が小さかったという裏返しであるし、手作りのポテトチップスが振る舞われるのは、市販のお菓子が家に置かれ食べる習慣がその家にはないということを示している。

 

そういえば、お母さんは部屋の隅でなにやら内職のようなことをされていたように記憶している。ティッシュの節約については、もはや言わずもがなであろう。

 

私はその当時、その友人のお宅には心からの羨ましさを抱きながら、嬉々として遊びに通っていた。こんなに大きなミニ四駆コースがあって羨ましいな。こんな頻度で手作りポテチが食べられるなんて贅沢だな。

 

そのような純粋な子供の目を通して焼き付いている映像と、大人になって改めてメタ視点でその記憶を捉え直し、見えてくる状況とのギャップに、言語化できない漠とした感情を抱いてしまうのであった。

 

きっとこれからも、ティッシュを勢いよく何枚も抜き取ったときなどには、あの時の光景が、小さな罪悪感とともに、胸のうちによみがえってくるに違いない。