いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

日はまた昇る

アーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』を読了した。私にとって初となるヘミングウェイ作品だ。
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彼の作品には長らく興味を持っていたが、なかなか手を出せなかった。理由としては、海外文学の読み手として信頼を寄せている村上春樹が、ヘミングウェイをあまり好んでいないように感じたからだ(きっと同時代の作家フィッツジェラルドが好きすぎるがゆえにだろう)。

 

しかし今回、好きな訳者のひとり土屋政雄カズオイシグロ作品等を翻訳)の新訳版があるということを知り、またその対象が最高傑作とも名高いこの作品だったということもあり(村上も本作が一番だと語っている)、満を持して、初のヘミングウェイ作品に挑むことにした。

 

読み始めから度肝を抜かれる。

 

彼の特徴として聞いてはいたが、なんて淡泊な文章なのだろうと。また対話文にも特徴があり、よく言えば生き生きとした、わるく言えばだらだらとしたその書きっぷりには、はじめのうちは戸惑いを覚えた。

 

会話文が増えると俗っぽい印象を与え、文学性(芸術性)が低下しがちだ。それゆえ多くの作家は、ポイントとなる発言以外は地の文で補填したり、単調にならぬよう台詞と地の文を組み合わせる工夫等を施している。

 

しかしヘミングウェイは省略もせずに淡々と、登場人物たちの台詞を並べていくのであった。私の戸惑いは中盤くらいまで続いた。また、大きな展開もなく静かに進行する物語や、事象のみがただ綴られていくその語り口に、いまいち面白さを見いだせずにいたのであった。

 

そこで、私は物語を読むのと並行して、ネットや本屋を使い、ヘミングウェイ作品について書かれた文章を読みあさった。彼の書く文章の味わい方や、なにがどう優れているのかを、心得た上で作品を読みたくなったのだ。

 

そこで私は、彼が提唱する「氷山理論(水上に見える八分の一だけを書けばよいという創作哲学)」や、その「絵画的」な文章の特徴、他者の感情には踏み込まないといった「抑制的」な書き方の信念を知った。それにより徐々にヘミングウェイ作品の読み方がわかってきた。

 

終盤に入ると、物語が大きく動いたからということもあるが、前のめりな姿勢で作品を堪能することができた。最後読み終えたときには、この作品のことが大好きになっており、早くも読み返したいという感情に駆られた。

 

彼は短編の名手とも聞くので、次は短編集に手を出してみようと思っている。また、同時代の作家フィッツジェラルドとの比較も改めて感じてみたくなったので、彼の作品の方も並行して読んでみようと思う。