いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

喜怒哀楽ルーレット

娘とよくする遊びがある。

 

喜怒哀楽ルーレットだ。命名は今した。どんな遊びかというと、私が「嬉しい」「怒った」「悲しい」「楽しい」とランダムに言い、それに対して娘が全身と表情を使って喜怒哀楽を表現する、そんな遊びである。

 

私がふいに娘に投げかけて始まることもあるし、「おこった、っていって」と娘の方から要求してくることもある。どちらにせよ、何の文脈もなくはじまる遊びだ。

 

昨夜も、夕食後からお風呂までの空き時間でこの遊びをしていた。そのとき、ある変化を感じたのだった。

 

娘が言われたとおりの喜怒哀楽をしっかりと表現していたのである。この遊びはもともと喜怒哀楽の「正確性」に重きを置いていなかった。私がお題を振り、それに呼応するように娘がポーズと表情を変える、単にその変化とバリエーションの多さを楽しんでいたのである。

 

しかし、昨夜の娘はそうではなかった。「怒った」と言えば、ふくれっ面で両拳を地面の方へと振り下ろし、「悲しい」と言えば、両目の端に丸めた手を当て泣いている仕草をした。そして「楽しい」と言えば、両手を広げて満面の笑みをつくるのであった。

 

正しく喜怒哀楽ができている。さらにそれが古典的な表現ながらに、しっかりと相手に伝わるボディランゲージになっているところに小さな感動を覚えた。おそらくは大好きなトムとジェリーから習得した表現なのだろう。

 

そんなわけで、喜怒哀楽ルーレットの遊びが昨夜で一段階レベルが上がった。子供の成長に伴って同じ遊びでも進化していくんだなぁ、と感慨深く思ったのであった。