いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

共有したい、共感したい

女の子ゆえなのか、幼子ゆえなのか。娘は私たちにいろんなことを共有したがる。

 

面白い発見をしたときは、すぐさま「ぱぱ、みて」と言ってくる。昨日も、お風呂の中で吸盤が身体にくっつくとき愉快な音を鳴らすのを発見すると、娘は私のことを呼んだ。

 

「ほんとだ、おもしろいねぇ」というと「でしょ、ほらほら」といった感じの笑みを浮かべ、なんどもなんども見せてくれる。

 

また美味しいものを食べるときも一緒だ。例えば大好きな枝豆を食べているときは、私たちにも手渡しでそのいくつかを分けてくれる。「ぱぱもたべて」と言い、そのおいしさを共有したがるのだ。

 

もちろん数が少ないときは食い意地をはったりもするのだが、たいていは分けてくれようとする。私たちは娘にたくさん食べてほしいので遠慮することも多いのだけど、好きなものを分け与えようとする娘の優しさにはいつも感動を覚えてしまう。

 

そして、面白いテレビを観ているときもそうだ。最近、連日連夜観ているトトロの映画でも、自分の大好きなシーンがくると私の手を引きテレビの前へと連れてくる。

 

「ぱぱ、ととろ、みて」

 

「ほら、ととろ、ねんね」

 

「ととろに、ことことした」

 

「あ、くち、おっき~い」

 

画面を指さし、その動作ひとつひとつを楽しそうに解説してくれる。何度も観ているはずなのにあまりに新鮮なリアクションをとるので、観ていてこっちまで楽しい気持ちになれる。

 

このように、誰かに感動や楽しさを共有し、共感してもらいたい、というのは女の子ゆえの感情なのだろうか?それとも小さな子どもゆえの行動なのだろうか?娘をみていて、昨日はそんなことをぼんやりと考えていた。

 

どちらにせよ、彼女の「楽しい」や「美味しい」、「面白い」を一緒に体験できて、私としてはとても嬉しく思っている。

 

こんな娘も、いずれ大きくなったらパパには何も共有してくれなくなるのだろうか。ふと、そんな悲しい未来を想像してしまい、慌ててかぶりを振った。

 

そうならないよう、小さい頃からの関係の積み重ねが大切なのだろう。また仮にそうなったとしても、それは正常なる成長の証でありきっと喜ばしいことなのだろう。

 

とにかく後悔だけはしないよう、今後も娘とはまっすぐに向き合っていきたい。そう思った。

 

そして私からも娘にはいろんなものを共有してあげたい。また願わくば、共感してもらえたなら嬉しいな。

 

・・・・・おや?

 

どうやらこの感情は、誰にでも持ち得るものらしい。