いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

小確幸(ショウカッコウ)

小確幸』という造語があるらしい。

 

昨日とあるブログ記事を読んで知った。村上春樹がエッセイの中で用いた造語で、少し前には台湾等で大流行したらしい。彼のファンなのだが、恥ずかしながら知らなかった。

 

この言葉を知って、今の自分にとても当てはまる言葉だなと思った。「小さいけれども確かな幸せ」ああ、まさに私が毎日感じているものではないか、と。

 

調べてみると、村上春樹はこの言葉を使ってこんなことを言っているみたいだ。

 

小確幸」のない人生なんて、かすかすの砂漠のようなものにすぎないと僕は思うのだけれど。

 

本当にそうだなと思う。こんなことを書いていて、ふと、大学生時代に自分の書いた『幸せメーター』という文章のことを思い出した。

 

懐かしきmixiで書いた文章だ。読み返したくなって、何年ぶりかにログインしてみると、サイトの様変わりぶりに驚いた。それでもなんとか該当の“日記”を見つけられた。恥ずかしいけど、ここにも引用してみたい。

 

もしも幸せメーターというのがあるとしたら。

 

僕のそれはたぶん人よりも小さいと思います。ちょっとしたことで、すぐに針が振れてしまうことでしょう。

 

朝窓から漏れる太陽の光から今日は晴れだと知った時。誰かと心触れるコミュニケーションが取れた時。暖かい部屋で寝転び、音楽を聴きながら読書に浸る時。

 

おいしい食事にありつけた時。バイト先で教えた生徒に喜んでもらえた時。友達と遊んだあとの帰り際、上手に「じゃあね」が言えた時。夜ベッドの中で、温もった部分に身体を丸めながら瞼を伏す時。


人並みの幸せってなんなんでしょうね。

 

こんな他愛の無いものじゃないのかもしれません。でも自分は安上がりな奴だからって、開き直ってるこの頃です。


幸せって「幸」という上下左右対称なこの字のように、日常と自分をちょうど半分で折り曲げた時にぴったり合わさる部分のことなんだと思います。


幸せメーターが振れる人や物や時間を、大切にできたら“最幸”です。

 

今読み返すと文章には色々とケチをつけたくなるけれど、基本的に自分は昔から同じようなことを思い、書いていたんだなぁと再確認した。

 

幸いなことに、当時の友人達はとても寛大だったようで、コメント欄には14人もの人から嬉しいコメントが寄せられていた。

 

今はその幸せの形は少し変わった。完全にその中心には家族がいる。昨日もそれを象徴するシーンがあった。

 

家族3人ベッドで横になった際、真ん中の娘が両腕を広げ、私と妻に声をかけた。

 

私たちは娘の腕まくらに頭を乗せる。すると娘は私たちの頭をガシッと抱きしめ、「だいすきよ」と笑顔でつぶやいた。そして私、妻の順番で「ちゅっ」っと、鼻先をくっつけるキスもしてくれたのであった。

 

小確幸』その言葉が改めて私の頭をよぎった。でも、これは少し違うかもしれない。これはもはや『大確幸』と呼べるものなのかも。

 

少なくとも、私の小さな『幸せメーター』によればそうだ。針は大きく振れ、温かい気持ちが全身を包んだ。