いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

その1日をどう捉えるか

湯船に浸かりながらふと思った。

 

娘は毎日が楽しそうだなぁということを。彼女は最近買ってもらった自分用の小さな手桶で、ばしゃばしゃと私にお湯をかけて笑っていた。


その笑顔は毎日同じように屈託がなくて、見ているこっちまで楽しくなってしまう笑顔だ。いいなぁと思いながらも、私は少しだけ後ろめたさを感じてしまった。

 

というのも、その寸前まで私は、早く週末がこないものかと憂鬱な感情を抱いていたからだ。平日なんてのは早く消化してしまい、休みの日に思いっきり人生を謳歌したい、そんなことを考えてしまっていた。

 

私が週末に向かうためだけの“消化試合”として、ただただ“こなしている”今日も、娘にとっては最高に楽しい1日なのだ。そう思うと、そんな1日が早く過ぎ去ってしまえばいいと思ってしまったことに対して、申し訳なさを感じてしまった。

 

自分にとっては何気なく行っていた日常会話の中に、思いのほか喜びを見出してくれていた妻に対して抱く罪悪感と少し似ていた。誰かが大切だと思っていることを、軽く見なしていたとわかったときの心苦しさだ。

 

それでも、やはり私は平日のことは週末までの長い助走だとしか現時点では思えない。でも私がいくらそう思ったところで、娘の最高の1日が短くなったりはしないのだ。そのことだけが私にとっての救いである。

 

時間とは平等で、だからこそ残酷だよなぁ、と改めて思った。願わくばもう少しだけ前向きに捉えたいものだ。