いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

死という概念

「ぱぱ、みっきーが、しんじゃってるよー」

 

娘がいきなり“死”という概念を使い、いささか戸惑った。どこで覚えてきたのか。おそらくは映画ライオンキングにおける、父との死別シーンから学んだのだろう。

 

“しんじゃってる”というミッキーのヌイグルミをみると、ベッドの上にだらんと横たわっている。確かに死んでいるようにも見えるのだが、素直に見れば寝ていると表現すべきものだろう。

 

「ミッキー死んでないよ、寝てるだけだよ」

「みっきー、しんでないの?あぁよかったぁ」

 

また別の場面。私と娘は再びベッドの上で遊んでいた。家遊びをするときは、リビング横にある遊び部屋か、クイーンサイズのベッドの上が、私たちの定番なのだ。

 

「ぱぱ、しんじゃうーってして」

「死んじゃうー?」

「べっどからおちて、しんじゃうーって」

 

私はベッドによじ登り、そこから落ちる演技をした。娘はベッド下で動かなくなった私に近寄ってきた。「ぱぱ、しんじゃったの・・?」と悲しむ演技を加え、慌てて妻を呼びに行った。

 

妻は「きっと死んだふりだよ」と言いながら娘を引き連れ戻って来て、脇腹をくすぐって私を生き返らせた。娘はよかったぁと胸を撫で下ろし、私と妻は娘の奇妙なブームの到来に、まいったねという顔を交わし合った。

 

“死”という概念を覚えたことはひとつの成長だ。遅かれ早かれ知らなければならないし、それを言葉で教えるのは難しいため、自らでその概念を掴んでくれたことは有難いと思っている。

 

ただ、その“死”が、面白おかしく扱って良い、軽いテーマではないことは、徐々に覚えさせていかなければならないだろう。死がツラく悲しいものだということを、いつかは嫌でも知ることになるのだろうけど。