いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

幼女とじょうろ

じょうろは幼女の手によく似合う。

 

昨日、改めてそう思った。我が家のお風呂場には、砂場遊び用のじょうろが置かれている。娘はお風呂に入るたびにそれを持ち、いろんなものに水をかけ遊んでいる。

 

昨日も私が身体を洗っている時に、全身についている泡を娘がじょうろで洗い流してくれた。どうやら彼女は泡を汚いものだと認識しているようだ。私たちがいつも洗い流しているからだろう。(間違っちゃあいない)

 

ともかく、せっせとじょうろにお湯を汲み、健気に少しずつ私の身体から泡を洗い流そうとする娘の姿を見ていて、私は冒頭の感想を抱いた。

 

その姿があまりにしっくりとくるので、じょうろが幼女専用の道具かのようにさえ感じてしまったほどだ。

 

水を汲み、そのままジャッとかけるのではなく、ちょろちょろと優しく水をかけていくところに恭しさを感じるのだろう。そこには、慈愛の精神のようなものが宿っているかのように感じられるのだ。

 

そして相手を重んじるが故に、なんどもなんども水を汲み直し、少しずつ少しずつ水を注いでいくという、その稼働対効果の低さにも、なんともいじらしい感情を抱いてしまうのだと思う。

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それにしても、『幼女とじょうろ』って響きも良い。

 

韻も踏んでるし、一見すると回文のようにも見える。もしかすると、『じょうろ』って名付けた人も、幼女との親和性を感じていたのかもしれない。なんて。

 

でもそれくらい、幼女とじょうろは相性が良い。ずっと眺めていたいほど、幸せな気持ちにさせてくれるのだ。