いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

ごめ〜んしゃい

少し前まで、娘は謝ることが苦手だった。

 

何か度を過ぎたイタズラをすると、私たちは怒った表情をつくり、「ごめんなさいは?」と彼女に謝るよう促したものだ。

 

そんなとき娘は黙り込み、睨むような目つきでこちらを見つめてきた。そしてむすっと口を尖らせ、何事にも耳を貸さない状態へとなるのが常だった。彼女なりにばつの悪さを感じていたのだろう。

 

私たちは我慢強く彼女と対峙し、時には真っ暗な部屋にいれるというお仕置きさえしながら、なんとか彼女に謝ることを教えようとしてきた。

 

悪いことをしてしまうのは子どもなのだから仕方ない。ただ、それを悪いことだと自覚し、ちゃんと謝ってくれさえすれば、何事も許してあげようと思っていた。

 

そんな娘が最近、「ごめんなさい」を自ら言えるようになった。正確には「ごめ~んしゃい」と言う。

 

それを妻から聞いたとき、私は喜びを口にした。しかし妻曰く、そう喜んでばかりもいられないらしい。

 

なぜなら娘は、その言葉を“なにをしても許してもらえる魔法の呪文”として捉えている節があると言うのだ。

 

現に昨日も、そんな場面があった。

 

粘土遊びをしているとき、椅子からぽいぽいと粘土や道具を床に投げだした娘。私たちがそれを怒ろうとした矢先、娘は先手をとるように「ごめ~んしゃい」の呪文を唱えた。顔には「どうだ」といわんばかりの微笑みを携えていた。

 

他の場面でもそうだ。娘がおもちゃをもって、机をばんばんと叩いていた。私がそれに対して「ダメだよ」と言うと、彼女はケロッとした表情で「ごめ~んしゃい」と言って笑っていた。

 

彼女が謝ることを覚えたのはもちろん嬉しいことだが、「ごめ~んしゃい」を当てにして悪いことをしようとする魂胆が見え見えだった。

 

これは心が伴っていない謝罪という一番いけないやつだ。謝罪会見のお偉いさんや政治家が口にするそれと一緒である。そんな「ごめんなさい」なら、口にしない方がマシかもしれない。

 

どうやって娘にそれを教えたものか。

 

言葉と使い方を先に覚えてしまっただけに、後から本質を教えていくというのはなかなか骨が折れそうだ。しばし頭を悩ませなければなるまい。

 

ちなみにそんな娘を見て妻はこんなことを言っていた。

 

「謝ればすむと思っているとこ、ほんとパパみたい」

 

どうやってこのイメージを払拭したものか。

 

そんな印象を先に与えてしまっただけに、後からその誤解を解いていくというのはなかなか骨が折れそうだ。しばし頭を悩ませなければなるまい。

 

・・・でもとりあえず、謝っておこうかな?