いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

TOEICを受けてみた

昨日は会社でTOEICを受験した。

 

育成の一環で、四半期毎に募集がかかり、自己負担なしで受験できるのだ。仲の良い先輩と「勝負しようぜ」と話が盛り上がり、このたび受けてみることにした。TOEICを受けるのは実に7年ぶりくらいだ。

 

一応、試験に向けて、とってつけたように手持ちの英語の書籍を読み、インタビュー音源を聴いた(TOEIC対策本などではなく、海外文学に関する趣味で買っていた本だ)。ただそんなことを数日間やったところで、10年以上ある英語のブランクは決して埋まらないだろう。

 

そんなわけで、当日を迎えた昨日も、散々たる結果になることは覚悟の上だった。今後も定期的に受けて、徐々に点数を上げていけばいいじゃないか、と。

 

試験が開始した。まずはリスニング。張り詰めた空気の中で、ラジカセから流暢な英語音声が流れ始める。

 

驚いた。次々に英語が頭に入ってくるのだ。

 

音として。当然、意味はまったく入ってこない。ただただ滑らかな英文が、左から右へと心地よく流れていくのであった。私は頭の中で「aha…」とつぶやいた。

 

しばらくするとリスニングは別の形式の問題に移った。長めの会話を聴き、その後で問題用紙に書かれている英文の問題と選択肢を読む。私は読書が趣味のため、活字を読むことには人よりも慣れている。そのため英文を指でなぞると、滑らかに活字が頭に入ってきた。

 

そう、音として。私は頭の中で「ぱーどぅん」とつぶやいた。ただ、その綴りすらも浮かばなかったので、その言葉でさえ平仮名表記で浮かんだのであった。

 

そうこうしているうちに、リスニングパートは終了した。次はリーディングだ。まずは短い文章の虫食い部分に英単語を埋めていく。

 

私は文章を頭の中で音読しながら、その響きの美しさだけで、選択肢から(C)を選んだ。このような問題はフィーリングだ。次の問題も、文章としてのリズムが良いという判断で(B)のマークシートを素早く塗った。

 

その後は長文問題になった。長文はその中のどこかに答えが書かれているはずなので、時間をかければ戦い方はある。私はその日はじめて文章と真剣に向き合った。意味のわかる単語は少ないが、日々の読書で培った“行間を読む力”だけで、なんとか対抗していった。

 

『この1文は長文の(A)~(D)のどの箇所に入るでしょう』という問題では、接続詞だけに注目し、「私ならこのタイミングで逆接の文を入れ、文章にメリハリをだすな」というような判断で、選択肢を選んだ。私にとってはもはや、TOEICは『国語』の試験と化していた。

 

そのような感じで、TOEIC試験はついに終了した。結果はいつ私の手元に届くかはわからないが、たとえ永久に届かなかったとしても、私は決して怒りはしない。

 

私は昼食中、バッグに忍ばせていた文庫本を開いた。次々と日本語が頭に入ってくる。音も、そして意味も

 

あぁ日本語よ。私が愛しているのは、お前だけだよ。