いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

遠い山なみの光

カズオ・イシグロの『遠い山なみの光』を読了した。
f:id:pto6:20190611081426j:image
少し前に新装版が発売されたので、なくなる前にと、慌てるように旧装版の方を購入した。そちらのカバーの方が私には馴染みがあるし、その他の本もすべて旧装版で買っているので、どうせ集めるなら揃えたかったのだ。

 

イシグロの処女長篇ということで、いくらか“幼さ”を感じられるのでは、と思って読んだのだが、実際には全くそんなことはなかった。彼はこの第一作目から既にその“抑えの利いた静謐なタッチ”を我がものとしていて、描かれる世界には充分な奥深さがあった。

 

物語は戦後間もない長崎が舞台だ。全体的に薄暗い雰囲気が漂い、中心となるのは主人公の思い出話という、極めて退屈してしまいそうな内容なのだが、なかなかどうして、ページを捲る手が止まらなくなるほどに面白い。

 

主人公の一人称で淡々と語られていくのだが、それぞれのエピソードや会話の端々には、おぞましい何かが渦巻いている予感が漂っている。その“おぞましさ”の正体を突き止めたい、そんな恐いもの見たさの一心で、どんどんと読み進めていってしまうのだった。

 

その“おぞましさ”の正体は、結局さいごまでしっかりとは明かされない。しかし、終盤で揃ってくるいくつかの状況証拠と、違和感を覚えざるを得ない一部の会話によって、“物語の真相”を想像するに十分な根拠が、解釈の余地を残しながらに読者の手へと委ねられる。

 

娘を自殺で失った主人公が語る、昔の友人とその子供におきたという冷酷なエピソードは、少なくとも終盤部分は(そして、もしかしたら最初から最後まで)実は主人公と亡くなった娘との間におきた出来事だったのだ。

 

それに気づくと、主人公はただ単に過去の思い出話をしているわけではなく、娘を死なせてしまったその原因について、拭いきれない自身への罪の意識について、懺悔するかのように語っているのだとわかってくる。

 

終始漂っていた“おぞましさ”の正体はこれだったのだ。自分本意な判断で、娘を自殺に追い込んでしまった。その事実を真っ正面からは受け入れられず、自己防衛のために他人のエピソードとして記憶を書き換えているところに、私は生々しいまでの人間のリアルを感じた。

 

このように書いてしまえば、構成や隠されたトリック自体はとても単純なものだ。しかし、読者をぞくぞくさせながら最後まで読ませることができるのは、やはりイシグロが持つ文章の力だろう。20代でこの作品を書いたというのだから、その才能には感服せざるを得ない。

 

またこの本を読んでいて、やはり“良い小説”には“良い謎”が具わっているものだな、と改めて感じた。その“謎”が読者を最後までひっぱっり、解き明かすことで快感を手に入れさせるのだ。そしてその“謎”をどう魅力的に描くかが、作家たちの腕の見せ所なのだろう。

 

そういう意味では、カズオ・イシグロはその名手だ。今作を読んで久しぶりに私の中のイシグロ熱が再発した。続けざまに、もう一作品手に取り読んでみたいと思う。