いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

文章読本

三島由紀夫の『文章読本』を読了した。

f:id:pto6:20190719085102j:image

なにかと文学好きを漂わせてきた私だが、恥ずかしながら、日本の近代文学にはめっぽう疎い。理由としては旧文体を読むのにストレスを感じるからなのだが、一方で機会があれば足を踏み入れたい世界だとは考えていた。


そんな私にキッカケが生まれる。あるネット記事で、谷崎潤一郎の『文章読本』が紹介されていたのだ。私はそのタイトルも含め、とても興味を惹かれた。すぐに調べてみると、現代にはびこる“文章のハウツー本”たちの元祖ともいうべき、名著と名高い本だった。


すぐに読んでみようとした。しかしその章立てを見て手が止まる。その中で語られているのは、今では多くの人が口にする「文章は明晰が第一」というようなことばかりに見えたからだ。きっとこの本が出所で、現代へと脈々と受け継がれてきたことなのだろうが、だとしても、今更読んで新たな発見は期待できないよう思えた。


そんなとき、類似商品として紹介されていた同タイトルの本たちが目に入った。どうやら谷崎の『文章読本』に影響を受け、その後名だたる作家たちが同タイトルの本を発表したようなのだ。それらの内容を見比べ、もっとも読みたいと思った三島由紀夫のものを選んだ。


そんなわけで、この本が私にとって初めての三島作品である。三島由紀夫の存在については、文章力に纏わる話になると決まってと言っていいほどその名が挙がっていたので、以前から気にはなっていた。


そして読み始め、私は衝撃を受ける。


その気品溢れる筆致、理路整然とした論理展開、それでいて読みやすく、恍惚感すら抱かされる魅力的で甘美な文章が、そこにはあった。私はこの出会いへの喜びに、小震いをしながら読み進めていった。


三島の『文章読本』は、「誰しもが文章を書けるようになった時代」において、その「誰しも」に向けて文章の極意を解いた谷崎のアプローチとは異なり、「誰しも」には決して到達できない、「真の文章家」となる為に必要な真髄がまとめられている。


非常に深い内容が、わかりやすく丁寧に提示されている。なにより、説明をする三島の文章自体が魅力に溢れているため、この上ない説得力を纏っているのだ。


とあるレビューで「色んな名文が紹介されているが、説明するアンタの文章が一番だよ、と言いたくなる」ということが書かれていた。私も完全に同意する。例として紹介される“名文”たちを次第に鬱陶しく感じてしまうほど、三島の文章を読みたいという欲求に駆られるのだ。


三島は、文章においては「格調と気品」を重んじると語っており、それを自らでも貫いている。彼の文章からは、生半可な文章家では決して纏い得ない品位が香り立ち、プロとしての確固たる矜持を感じさせられる。誰しもが文章を書けるようになった時代だからこそ、そこにある圧倒的な“格”の差を、見せつけているかのようだ。


また、私が個人的に感銘を受けたのは、その文章が纏う“知的さ”だ。これまで私が好いてきた文章家たちは、たいていは感覚的文体を有しており、感受性に富む表現に心を奪われることが多かった。しかし、三島の書く文章はとにかく論理性に満ちており、感性というよりは知性で書かれている文章のように感じられた。


私も、自分のことを感性よりも知性に重きをおく人間だと分析している。そのことが、文学的文章を書く上で不利に働くのではないかと、少しばかり心配していた節があった。しかし三島の圧倒的な文章を読んで、その不安は消し飛んだ。知的文体でも洗練させれば、ここまで文学性に富む、艶やかな文章を書くことができるのだ。


とにかく、今更ながら私は、三島由紀夫にドはまりしてしまった。しばらくの間は、彼の作品を読み漁りたい。