いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

おとうさん

最近ここぞとばかりに娘が使う台詞がある。

 

「おとうさん・・・ごめんなさい」

 

彼女はこの台詞を吐くとき、肩をすくめ、うつむき気味になってとても“しおらしい”素振りを見せる。しかし目線だけはチラチラとこちらを窺っており、口元にも抑えきれない様子のニヤつきが浮かんでいるのであった。

 

わかるだろうか。ポイントとなるのはいつもの「ぱぱ」ではなく「おとうさん」と私を呼んでいるところだ。

 

何かの真似をしたのかもしれないが、初めて言われたとき、私はハッとしてしまった。まるで再婚し血の繋がりのない子供に初めて「お父さん」と呼ばれたかのような、驚きと感動に満ちたリアクションをしてしまった。

 

それ以来、娘は私の同じ反応を引き出す為、叱られるようなことがあるたびに、この“伝家の宝刀”を抜いてくるようになった。これを言えば私が感動に包まれ、叱られていた事から話の焦点がずれることを心得ているのだ。

 

これまでにもう10回くらい娘に使われた手口だが、不思議なことに、私にとってその言葉は未だ新鮮さを失っていない。今でも言われるたび、初めてのときほどではないにせよ、小さくハッとさせられてしまうのだった。

 

なぜだろうか。その発言から、娘の大人びた気配を感じ取るからだろうか。それとも「お父さん」という言葉が指し示す人物のイメージが「パパ」のそれよりも大人然としていることで、自分に貫禄がついたように錯覚し、嬉しい気持ちが湧き上がっているのかもしれない。

 

そこらへんの私の中での化学反応はいまいち解明できないが、とにかく「お父さん」と自分が呼ばれるたびに、心の中でぱちぱちっと何かしらの電流が走るのだった。

 

今では娘に完全に遊ばれているわけだが、その言葉をついまた聞きたくなってしまっている自分がいる。もう少し彼女が大きくなったら、正式に「お父さん」と呼ばれるようになる日もいずれ来るのかもしれないな・・・。

 

ただそう考えると、人生において「お父さん」より「パパ」と呼ばれる期間の方が実は尊い時間なのかもしれない。すると、急に「パパ」にも思い入れが生じてくるのであった。どうなるにせよ、毎日を大切に過ごしたい。