いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

『100日後に死ぬワニ』を見届けて

中盤までは、正直のところ惰性で見ていた。

 

しかし死までのカウントダウンが10日を切ったあたりから、結末が気になって仕方なかった。最後の日を迎える朝方には、夢にまでワニの絵が出てきたほどだった。

 

最終回を見て、じんわりとした感動に包まれた。じっくりと100日かけた“振り”が効いている分、ただ最小限を描くだけで、読み手には何が起こったのかが伝わる仕組みになっていた。死の場面なのに、美しさすら感じた。
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最後を見届けた後、娘とシャワーを浴びながら、誰の死に当てはめたとしても、100日前からの日常を切り取って描けば、あのワニと同じくらいドラマチックに描けるのではないか。そんなことを、ぼんやり考えていた。

 

でもすぐに気がつく。突然死でない場合はその限りではないことに。例えば、長い入院生活の後に亡くなる人。

 

私の兄もそうであった。29歳のとき突発性のリンパ腫になり、約5ヶ月の闘病生活の後、病院のベッドの上で亡くなった。100日前から兄の生活を描いたとしても、毎日病室が背景の、動きのない物語になることだろう。

 

兄は死の2日前に、医者からもう治療の手立てがないことを告げられていた。私はその翌日、兄と最期となる(もちろん当時は最期だなんてわからなかった)面会に訪れていた。そのとき私は、ただ死を待つばかりの兄に対して、かける言葉を見つけることができなかった。

 

兄もそんな私になんと声をかければいいか迷ったことだろう。それでも私は兄に何かを伝えたくて、ベッドの上で凝り固まった兄の肩を、懸命に揉み続けていた。

 

そのときのことを思い出しながら、はたして人は突然死ぬのと、わかった上で死を待つの、どちらの方がマシなのだろうかと考えた。答えはでなかった。「どちらか選んでいいよ」と言われても、私は選ぶことができない。

 

少し湿っぽい話になってしまったが、言いたかったのは、私はこのワニの物語から、改めて『死』というものに思いを巡らすきっかけをもらった、ということだ。

 

人を惹きつける作品としてのアイデアにも、そこに込められたメッセージにも、私は素直に、とても感動した。