いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

娘のもう笑わない宣言

「もうパパではわらわないから」

 

久しぶりに娘とお風呂に入っている時、唐突にそう宣言された。ツンと顎を上げ、大人びた表情が作られている。どうしてかと訊ねると、彼女はこう答えた。

 

「だって6さいは、あんまりわらわないから」

 

これで合点がいった。昨日から6歳になった娘は、急に「6歳の自覚」を持った振る舞いをするようになったのだ。まるで誕生日を境にして、一気にお姉さんになったかのように。

 

彼女は自分が「いかに6歳か」を証明したがっていた。私に対して変な顔をしてみて、というのだ。言われたとおりに変な顔をつくって娘に向ける。

 

「ほら、ぜんぜんわらわないでしょ」

 

娘は冷めた目をして、得意げに言ってきた。笑らない気の相手に変顔を向けるのは虚しいものだ。悔しくなったので、気を衒った奇声を上げ、ふいをついて娘を笑わせてやった。

 

「すこしくらいは、わらうけどね」

 

彼女は澄まし顔を取り戻し、平然を装って強がりを吐いた。あまりに冷めた目を取り繕う彼女を見ているうちに、少々不安にもなってきた。そこで、なぜ6歳になったらあんまり笑わないのか、理由を訊ねてみた。

 

「だってわらったら、さんすうとか、こくごとか、おぼえたことをわすれちゃうから。ほかにも、6さいはいろんなことを、かんがえなきゃいけないしね」

 

例えばどんなの?と聞いてみる。

 

「◯◯くんの、たかいオモチャとってあげたりとか」

 

そっか、6歳は色々忙しいんだね、と労いを伝えた。彼女は流し目をこちらに寄越しながら、しょうがないの、それが大人になるってことだから、と言わんばかりの表情で肩をすくめた。

 

このまま娘は私に対して冷たい目を向け続けるかもしれない。最初はポーズだけだが、そのうちそれが普通になり、いつしか父親とのあいだのコミュニケーション自体が冷めきったものになるかもしれない。こうやって世の中の父と娘の冷め切った関係が形成されていくものなのかもしれない。反抗期はこのようにして始まっていくのかもしれない。

 

私の中で不安が次々に渦巻いていた。私は笑顔をつくり、「6歳だって笑いたいときは笑えばいいんだよ」と言ってみた。なにも無理することはない、と。

 

「だって、ぜんぜんおもしろくないもん」

「わらうひつようがない」

 

ここまで言われると、もはや清々しかった。私は思わず吹き出してしまった。そうかい、そうかい。つまりは私の力量不足かい。いままで「ゲラ」モードで甘やかされていたぶん、これからはそうはいかないのだなと、ある意味では気合が入った。

 

確かに大人になるほど、くだらない事では笑わなくなるし、それに反応しないことがある意味では大人の証明である、というのは一理ある。

 

ただ娘はまだ知らない。大人になったからこそ一周回って笑ってしまう、面白いこともあるということを。

 

そんなことを、妻と『水曜どうでしょう』を見て笑いながらに思っていた。いつか彼女も知るに違いない。