いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

なんで?

最近、娘とどんどん意思疎通ができるようになってきた。

 

「おいで」「あけて」「(と)って」「(し)て」「(だ)っこ」「(い)こ」「ちょーだい」

 

彼女はそれらの言葉とジェスチャーを駆使して、私たちに意思を伝えてくる。

 

その頭に「ぱぱ」「まま」をつけ、それでも私たちの反応が悪いときには、向かえに来て我々の手を引き、お願いの対象がある場所へと連れて行く。

 

当然たまには彼女が何を言いたいのかわからない、ということもあるのだが、日常におけるだいたいのことについては、彼女が何を欲し、我々に何を要求しているのかがしっかりと伝わってくる。

 

人と人はこれだけの語彙とジェスチャーがあれば、しっかりとコミュニケーションがとれるもんなんだな、となんだか改めて感心してしまう。

 

英語がしゃべれなくても海外に行ってみればなんとか生きていける、という話となんだか似ているなと思った。

 

娘は単語についても、日に日にどんどん覚えていっているようだ。自分で言えるもの。自分では言えないけど私たちが言うと何かはわかるもの。それらがどんどんと増えていき、更に私たちとの意思疎通がしやすくなっている。

 

子育てをしていてよく聞く話としては、今後さらに子供が成長していくと、何に対しても「なんで?なんで?」と聞くような時期がくるということだ。

 

親からするとそれがもの凄く大変だということなのだが、まだ未経験の私からすると、その会話を交わすのが今から楽しみでならない。

 

どう応えたら娘が納得してくれるのか、そんなことに頭を悩ませる日々が近々くるのだろう。

 

「お父さんはなんで私のこと好きなの?」

 

たとえばもしそんなことを聞かれたら、なんて答えたらいいんだろう。たしかに考えを巡らせてみると、なかなかの難問だ。

 

それについて伝えるためには、もしかしたら言葉でもジェスチャーでもない、他の伝え方が必要なのかもしれないな。そんなことを思った。

 

何にせよ、ちゃんと伝わってくれればよいのだけど。