いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

地震から一夜明けて

地震発生から一夜が明けた。昨日私たちの住むエリアは「震度5強」の揺れを観測した。

 

揺れを感じたのは家を出てすぐのことだった。駅へと向かい歩いている途中、地面から突き上げるような強い衝撃を感じた。

 

木々や電線は揺れ、自転車に乗ったご老人は道路に倒れていた。轟々という嫌な音と地震速報のアラーム音が至る所で鳴り響いていた。

 

私は揺れを感知するとすぐさま進路を変更し、無意識のうちに家の方へと駆けだしていた。

 

5分かけて歩いて来た道を2分で戻り、私は家へと帰り着いた。ドアを開けた妻は、避難所へと逃げるため、娘の着替えと必要最低限の荷物をリュックにまとめているところだった。

 

NHKでは「落ち着いて行動してください」とアナウンサーが繰り返す。東京で東日本大震災を経験した時の記憶が蘇ってくる。

 

娘の着替えと避難用のリュックをまとめ終えた。幸いなことに、あれ以降大きな余震はない。とりあえずはテレビの報道を見守ることにする。

 

会社には「安全が確認できるまで自宅待機させてください」とメールを送った。すぐに上司から「わかりました」との返信がきた。

 

時間が経つにつれ、さっきまで毅然としていた妻の腰が抜けはじめる。相当恐かったのだろう。それにも関わらず、的確な行動をとってくれた妻には感謝しかなかった。ぎゅっと抱きしめ、背中をさする。

 

娘はまだ地震がわからないので、いつもと変わらない様子だ。さっき「いってらっしゃい」をしたパパがなぜ戻ってきたのか、よくわからないようだが、なにはともあれ嬉しそうだった。

 

その後も自宅待機を続けた。そして昼過ぎには通勤で利用する路線の運行が再開した。

 

しかし、妻は依然として不安そうだったので、会社はそのままお休みさせてもらうことにした。会社へとその旨連絡すると、上司からも了承の返信があった。

 

このような状況にあっても、家族全員で一緒にいられるだけで安心感を抱ける。地震発生がまだこの時間であったことは、私たち家族にとっては不幸中の幸いだなと思った。

 

お風呂に水を溜め、必要最低限の食料を買ってきた。LINEでは他県の友人や家族から心配の連絡が送られてくる。私たちは順番に無事な旨と感謝の言葉を返信していった。

 

その後、午前中の疲労もみえてきたので、夜に備える意味でも、少し昼寝をとることにした。落下物のない和室の真ん中に布団を敷き、そこに家族三人、川の字で眠った。

 

結局妻は1時間ほど、私と娘は3時間ほど眠った。娘がそれほど昼寝をするのはとても珍しいので、もしかしたら娘なりに、いつもとは違う緊張感を感じ取っていたのかもしれない。

 

結局、それ以降まだ大きな揺れは来ていない。深夜にも何回か小さな揺れを感じ、そのたび私と妻は娘にかぶさるような姿勢をとったが、いずれも数秒程度、震度2、3の揺れにすぎなかった。

 

このような状態だと、今日も会社を休む、ということはさすがにできないだろう。今日はいつも通り出社せざるを得ない。

 

どうか、これ以上、大きな揺れは来ないで下さい。

 

もしも揺れるのなら、せめて家族が一緒にいるときにして下さい。

 

そんな誰にもぶつけられない儚い願いを胸に抱きつつ、私は出社の準備を始める。

 

これ以上の犠牲者が出ないことを、切に願う。