いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

そばの蕎麦屋

からしてみれば、今日もいつもと変わらない。

 

子どもは暦なんて知らないし、関係ない。1年が終わるというこの日も、彼女にとっては「あぁ、今日もパパがいる日か」くらいにしか思っていないだろう。

 

私もそんな彼女に賛同する。大晦日であってもいつもと変わらない一日だ。ただ、そんな私も半分は大人のようで、やはり少しだけ、年越しっぽいこともしたくなる。

 

そんなわけで、近所の蕎麦屋に行ってきた。

 

以前、父と母が遊びに来た際にも訪れたお店だ。とにかく出される料理がどれも美味しくて、グルメな父も舌を巻いていたほどのお店だ。

 

甘かった。店の前には長蛇の列ができていた。

 

そりゃそうだ。新参者の私たちですら知っているお店。以前からこの町に住んでいる人からしたら、目を付けていて当然だろう。

 

私たちは順番待ちボードに名前を書いて、注文を先に済ませた。既にいくつかの定食は売り切れていたが、お目当てだった年末限定の蕎麦はまだ残っていた。

 

私たちは店員さんに大体の待ち時間を聞いた。その間、妻は近くのスーパーに買い出しへ、私と娘は同じ建物の別フロアを探検して過ごした。

 

約1時間後、蕎麦屋へと戻る。ついに念願の蕎麦とのご対面だ。空腹も相まってとても美味しく感じられた。こだわりの蕎麦はさらさらとした食べ心地で、何杯でも食べられるように思えた。

 

私はもともと蕎麦が大好きなのだが、いつもはせいろで冷たくいただく。ただ、この店の蕎麦なら温かいのでもいける。蕎麦湯も味わい深く、程良いとろみが絶妙だ。

 

勢いで甘味も注文した。モナカに蕎麦アイスと白玉が挟まっており、これまた絶品だった。妻は終始うっとりとしたため息をついており、娘も大きな口を開けていた。

 

昼食で早くも年を越してしまった。

 

帰り道、家族3人で家へと歩きながら、例年とは違う蕎麦の食べ方に新しさを感じていた。うん、贅沢だ。

 

どうせ、蕎麦と年越しは関係ない。蕎麦を食べようが食べまいが、24時になれば年は越していくのだ。私の中にいる残り半分の子供が顔を出す。ちなみにダジャレちっくなタイトルを付けたのも彼の仕業だ。

 

家に帰ると、娘は私とハイハイレースをやりたがった。廊下の端から端までをハイハイで競争するのだ。娘が満足するまでそれを何度も繰り返す。しばらくすると私の胸に抱かれながら、娘はすやすやと眠りはじめた。

 

今年最後の昼寝。でもそんなことも当然、娘は知ったこっちゃない。あといくつ寝ればお正月?普通に考えれば、夜にもう一回寝たらだろう。

 

妻はキッチンに立ち、おせちを作り始めた。妻は大人だな。きっと8割は大人だ。いつも暦には素直に従い、それを最大限楽しもうとする。

 

妻と2人となると、私の中の半分の大人が再び現れてきた。今年も終わりかぁ。振り返るといろいろあった。

 

4月から新しい職場になった。新しい上司、同僚、仕事。心配もしたがすぐに慣れた。どんどん忙しくなってきたが、今でも伸び伸びと仕事ができている。

 

このブログは5月のこどもの日から書き始めた。そこから毎日書いて、今日で241日目。文章を書くのが好きな私にとっては、楽しくてしかたのない日課だ。

 

そしてマイホームのマンションも今年の秋に購入した。住み始めてまだ2ヶ月しか経ってないが、日に日に愛着が増してきている。とにかく居心地が良いのだ。

 

大きな出来事でいえばそのくらいか。あとは例年通り、好きな本を読み、音楽を聴き、家族と一緒にたくさんの時間を過ごした。

 

幸いなことに、娘はすくすく元気に育っており、言葉も増え、一緒に遊ぶのも更に楽しくなった。私や妻の真似をするのが可愛くってしかたがない。

 

うん、とてもいい一年だった。素直にそう思う。

 

来年も同じように過ごせたら、それ以上に幸せなことはないだろう。そうなるよう、できる限り頑張ろう。

 

私の中の子供と大人もお互いに頷き合う。そこだけは、彼らの意見も合致したみたいだ。