いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

マチネの終わりに

平野啓一郎の『マチネの終わりに』を読了した。
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長い間どこの本屋でも平積みされており、その示唆に富んだ装丁に徐々に惹かれていった本だ。著者のことを知らなかったので調べてみると、芥川賞も受賞した人気作家だということを知った。なおさら興味を惹かれ、先日ついに購入し読み始めた。

 

読み始めは、その巧みすぎる文章が少し鼻につく印象だった。一つ一つの情景、感情の描写がとにかく凝られており、それが当初は外連味のように感じられたのだ。

 

また「純文学の文体を使い大衆文学を書く」というようなその作風に、単に自分の器用さを見せびらかしているだけではないか、という斜に構えた感情が芽生え、なかなか素直に読めなかった。

 

しかし読み進めるにつれ、その訝る思いは徐々に消えていった。会話を中心に物語を展開させていく大衆文学のスタイルで、純文学にこそ宿り得る深いテーマを表現しようとする気概を感じさせられたのだ。作品としての深みは失わずに、読者の間口だけを広げるような、そんな高度な試みに挑んでいるかのように感じられた。

 

それ以降は、その流麗な文章を純粋に楽しむことができた。この作者は、人々が日常で使う沈黙や間の取り方といった微妙なニュアンスの描写が、本当に上手い。会話と会話の“行間”に含まれるそれぞれの心境、それを読者の共感を掴む形で、思わず「わかるわぁ」と言いたくなるほどリアルに描くことによって、それぞれの情景が映像として立ち上がってくるのだ。圧巻の文章力である。

 

そのような文章で紡ぐ物語は、まさに恋愛小説の王道ともいえる道筋を歩む。プロットだけを抽出して説明してしまうと、その使い古された展開に驚くだろう。しかしそんなありふれた展開を、これだけ重厚な物語として読ませるところに、平野の力量が現れていると思う。

 

私はその切なすぎる恋人同士のすれ違い劇に、嫉妬が絡んだ第三者の悪意ある嘘によって引き裂かれる二人のつらい運命に、図らずとも心揺さぶられ、胸の奥にツンとした痛みを感じた。

 

そして、良質な恋愛小説を読んだときの常だが、今回も私は新幹線でひとりこの本を読みながら、妻に会いたくなった。相手を「好き」だという気持ちは、言えるときにたくさん伝えておいた方がよい。いつなんどき、不運なすれ違いが生じるかもしれないのだから。

 

そんなわけで昨夜寝る前に、なんの脈絡もなく「好きだよ」と妻に伝えると、妻はどこか訝しながらも、とりあえずは喜んでくれた。我ながら自分本位な性格だなとは思うのだが、せっかく思い立ったのだから、伝えるべきことは伝えておかないと。

 

そのように、主人公たちの恋愛に感情移入してしまうほど、のめり込んで一気に読んだ。評判となるのも納得の、多くの人に愛され得る素晴らしい作品だと思う。

 

この秋には映画化もされるらしいので、それも機会があれば観てみたい。演じるのは福山雅治石田ゆり子で、そのキャストの妙にも心躍らされた。

 

できれば、妻とふたりでゆっくり観たいな。