いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

嵐山に呼ばれて

昨日は家族で京都の嵐山に行ってきた。

 

今年は一度も行っていないなと思うと、無性にあの風景を見たくなったのだ。こんなふうに思い立ったらふらりと京都に行けるというのは、関西圏に住む特権である。

 

電車を乗り継ぎ1時間ほどで到着した。特にシーズンというわけでもなく、観光客は少ない時期なのだが、それでも訪れている人は多かった。そのうちの半数くらいは外国人のように思えた。

 

阪急の嵐山駅から歩くと、すぐに視界がひらけ、桂川渡月橋が見えてくる。私はここからの眺めが好きだ。
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桜の時期、紅葉の時期でもない限り、そこにはいたって平凡な風景が広がっている。閑散としており、寂寥感すらも漂っているくらいだ。でもなぜだろう。ここに来ると心の中の波は凪ぎ、ささくれた気持ちがしっとりと収まっていくのを感じるのである。

 

思えば、就職して関西に住みはじめたとき、最初の休日で訪れたのがここ嵐山だった。同じ寮になった同期たちと花見をしようと訪れたのだ。そのとき一瞬にしてこの風景に心を掴まれたような気がする。

 

その後もこの場所は折に触れて訪れている。妻とも何度か一緒に来ており、付き合いたてのときと、娘を産む少し前に訪れたときのことが特に印象深く残っている。

 

昨日は、歩き疲れた娘が眠ってしまうと、妻と一緒に川沿いのベンチに腰掛け、見るでもなくただぼんやりと、穏やかな川の流れを眺めていた。

 

川底にある岩の大小に依るのだろう、ところどころに向きの異なる波の模様ができていた。それでも川全体としては下流に向け、穏やかな表情で淡々と流れている。

 

端々における引っかかりなんて、大成には影響を及ぼさない。それでもその引っかかりがつくりだす模様には、なんともいえない味わいのようなものを感じられた。

 

自分がいま感じている小さなしこりのようなものも、人生という俯瞰で見れば取るに足らないものに違いない。また、もしかしたらその模様ができたことにより、生きる上での深みや味わいも増しているのかもしれない。

 

年末に仕事で抱え込んでいたモヤモヤを、うまく解消できたような気がした。大丈夫、川はしっかりと流れている。そう確認できたことで、少し勇気が沸いてきた。

 

図らずとも、嵐山の風景に心救われた。またこの場所から呼ばれた気がしたら、そのときは素直に足を運ぼう。