J.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を再読した。訳者は村上春樹だ。
1年の締めくくりにこの名著を選んだ。何度読んでも新鮮で、瑞々しい感傷に浸ることができる。大学生の頃に読んだのが最初だが、今読むとまた違った感想を抱く。
物語は、青臭くて繊細なティーンエイジャーの独白によって進む。この年齢の子たちの殆どがそうであるように、斜にかまえたスタンスで世の中を嘆き、唾を吐く。
自分の居場所はどこにあるのかと彷徨い歩き、理解者を求めてもがき苦しむ。生きづらいはのは自分のせいじゃない。間違っているのはこの社会だ。身に覚えのある若者の嘆き節が物語の展開に合わせて終始綴られていく。
ただそのような内容にも関わらず、大人が読んでも辟易とさせられない。それはひとえにサリンジャーの文章の力だろう。発明とも言うべきその語り口。まるで清涼飲料水を飲むかのように、ゴクゴクと読み進められる。
このような軽快な筆致で物語を紡げたらどんなに楽しいだろうか。読みながら何度もそう思った。ただこのような文体は形を真似たところで再現は不可能だ。下手な者が扱えば俗っぽくて読める代物ではなくなってしまう。
あくまでサリンジャーの類いまれなる文章力があってこそ。奇跡的ともいえる文章なのだ。いやはや、目が肥えてくるほどに、その凄さを痛感させられるものだ。
主人公が追い求めている純粋なる精神は、大人になった今でも変わらずに美しいものだと思う。しかし人は成長に合わせて鈍感さを身につけ、それ以外のものともうまく付き合っていく術を学んでいくものなのだ。
それがいわゆる「大人になる」ということなのだが、このように書いてみると、いささか寂しい気持ちになる。
そんなやるせなさを感じるからこそ、いくつになってもこの物語が心に沁みるのだろう。純粋でありたいが、純粋のままでは生きられない、その世知辛さを主人公に代弁してもらうことで、慰めてもらっているのだろう。
いつまででも読んでいたいと思えるほど、幸せな読書体験だった。またいつか純粋な心に触れたくなったときには、この本を手に取り、ゆっくりと読むことにしよう。
さて、今年もいろいろな本を読んだ。改めて数えてみると1年間に55冊の本を読んだようだ。自分に合ったペースを見つけたので、来年も引き続き読書を楽しみたい。