いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

生きる上でのテーマと人格形成

生きる上で感じている不条理について、妻と話した。

 

たまに思いつきでこのような話を妻にふっかける。そんなとき、妻もすっかり慣れたもので「なんで?」だとか「どうかしたの?」だなんて野暮なことは口にしない。

 

一応その話題を持ち出す“文脈”は私の中には存在する。ただそれは極めて個人的なものであるため、私も敢えて説明しない。そんなことよりも、会話の中で積み上げられていくものの方が、ふたりにとっては興味深かろうと考えている節があるからだ。

 

流れから、「人は誰しもが何かしらのテーマを掲げて生きているだろう」という話がでた。ある意味では、その掲げたテーマを証明・検証する為に、人は生きている。自覚的であれ無自覚であれ、少なくともそのような側面は持ち合わせているだろう、とふたりで結論付けた。

 

では、私たちはどのようなテーマを掲げて生きているだろうか。お互いに、思いつくままに言葉にしてみた。それを確認し合ったところで、妻がこんなことを呟く。

 

「なぜ、そのテーマを掲げるようになったんだろう」

 

それをきっかけに、話は「人格形成」に纏わる話へと移行していく。私は思いつくがままに、頭に巡った考えを羅列していった。生まれ育った環境、具わっていた能力、親、兄弟、友人・・・。自分なりの推察を積み上げていくと、納得のできる解ができあがった。

 

まさに「なるべくしてなる」ようにして、私は生きる上でのテーマを選定していたのだ。自分のルーツに紐付いている分、掲げているテーマと私は切っても切れない。ゆえに、これまで自分がなしてきた選択や行動にも、漏れなくその影響が感じられた。

 

具体的なことを書いていないので、なんのこっちゃと思われるかもしれないが、妻とそのような小難しい話をしたよ、というお話。改めて自分を体系的に理解できたし、とても楽しかった。昨夜のお風呂での出来事。