いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

渇き

娘が息子を抱っこしている。

 

もちろん座った状態でだ。妻が手を添え、首が落ちないようにサポートしてあげている。私はその映像をビデオ通話越しに眺めていた。


娘のお姉さんぶりもすっかり板についた。布団に寝そべっている息子にカラカラの音を聞かせたり、歌いながらリズムよく手に触れる遊びをしてあげたりしていた。

 

そのように弟の存在が定着しているように、パパの不在もすっかりと受け入れているようにみえる。たまにビデオ通話で話す人、そう思われていても仕方がない。もう会いたいとも泣いてくれない。パパは大阪にいるから会えない。それがもう当たり前になってしまっているのだ。

 

それもあと二週間、とはいえどやはり寂しい気持ちにはなる。息子もそうだ。もうすぐで生後一ヶ月となり、身体も徐々に大きくなっているようなのだ。生まれたての小ささを、私は写真や映像でしか見ることができない。その身体の軽さを、体感することはできずじまいだった。

 

ただそんなことを残念がっていても仕方がない。状況が状況なのだ。自身を満たすためだけに強行して会いに行って、もし万が一が起ればそれこそ一生の後悔が残ってしまう。リスク、周りへの迷惑、それらを考えとった自分たちの行動に、今のところまったく後悔していない。

 

微笑ましい映像は続く。今の世の中は便利だ。少なくとも聴覚と視覚だけは、離れている彼女らを近くで感じられるのだから。でもだからこそ足りないところに渇きを感じるのであった。

 

はやく彼女らの柔らかい肌に触れたい。愛おしい匂いを鼻孔いっぱいに吸い込みたい。その暖かい温もりを、胸の中で思いっきり感じたい。