いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

若葉の輝き

ガジュマルの鉢を手に取りしげしげと眺める。

 

先日生えてきたばかりの若葉が他とは違う輝きを放っている。その葉だけが溌剌とした黄緑で、表面の光沢が眩しい。手触りも本当につるつるとしていて、一切の傷や汚れもついていない。

 

その若葉と比べると、従来からあった他の葉たちがとても年老いたものに感じられる。落ち着きのある深い緑色が気に入っていたのだが、それも盛りを過ぎた、下り坂にある色合いのように感じてしまうのだった。

 

表面の輝きも比較すると違いが目についてしまう。ベテランの葉たちはよく見ると、表面に霞のような汚れがついている。傷がついたり、ふちの方の色味が剥げかけていたりもする。

 

若葉が生えてくるまではそんなこと気付きもしなかった。どの葉も生き生きしていてとても健康的に見えたものだ。若さという圧倒的な力の前では人間も植物も同じく無力なのであろう。

 

子ども達と接していても、その無力感を抱くことがある。肌はとてつもなくスベスベだし、傷の治りや体力の回復だって早い。瞳は濁りのない輝きを放っているし、毎日が新鮮な喜びに満ち満ちているように感じるのだ。

 

会社でも、若い後輩のバイタリティを羨ましく思うこともある。テレビを見ていても、年下のアスリートや芸能人たちの挑戦する姿に、羨望の念を抱くことが増えてきた。

 

自分はまだ三十代前半なのだが、既に世の中心は自分よりも下の世代に移ったように感じる。なんだか早くも老後に向けた準備に入っているような、そんな気になることもしばしばだ。

 

本来であれば、若さという誰しもが一度は手に入れられる武器を使って、それ以降の人生における絶対的な装備を、新たな世代の『若さ』にも対抗できるくらいの武器を、手にしていなければいけないのだろう。

 

私も若さの欠片がまだ残っているうちに、その武器を死に物狂いで手に入れなければ。そうでなければ、本当に『若さ』という力の前に、ただただ、ひれ伏すだけになってしまうだろう。

 

そんなことを、ガジュマルの若葉を見ながらに考えていた。輝きを失った後でも味のある葉っぱは存在する。そんな葉っぱになりたいな。