いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

言葉を研ぎ澄ませる仕事

まだわずかしか働いていないが気づいたことがある。

 

私が職業としたアドバイザリー業務というのは、とにかく言葉を研ぎ澄ませる仕事だ、ということだ。提案書にしてもディスカッションにしても、相手に効果的に伝えるために言葉の精度を上げ、相手の意図を的確に理解するために捕捉し得る言葉の解像度を上げる。

 

周りの人を見ていると、やはり上位職になるにつれ、そのレベルも高いように感じる。当然、他にもたくさんの知識やスキルも必要になるのだろうが、今のところ実感できたこの仕事における必要不可欠な要素は、言葉を研ぎ澄ませられること、これに尽きる。

 

言葉で伝達し、言葉で理解するから、仕事において言葉が重要となるのは当然といえば当然であるのだが、前職のときには同じように感じることは少なかった。きっと数字だったり、社内政治だったり、他にも影響を及ぼす要素が多々あったからだろうと思う。

 

かたや今の仕事は言葉だけの勝負となる場合が多い。ライバルに競り勝ち受注を獲得するにも、クライアントを納得させるにも、成果物として提出する資料に書かれている言葉が物をいう。伝えるだけならそんなに難しくはないのだが、圧倒的な説得力を纏わせた言葉だけで資料を構成するのは、なかなか骨が折れる。

 

言葉を扱う仕事に従事するのも、それを極めることも、私の望むところなのだが、なまじ拘りをもっているからこそ力も入り、疲労感が半端ではない。文章に向き合い、ひとつひとつの言葉の選択や順序、組み合わせや構成等に思考を巡らせているうちに、頭から水分が飛んでカラカラに乾いていく感覚を味わう。

 

本来は、ここに書く文章のように、ゆるいところと締めるところを織り交ぜた、自由闊達な文章が好きなのだ。自分で書くうえでも、小説で読むのにしても。

 

それでもこれが私が選んだ仕事なのだから、逃げ出すわけにはいかない。職を選ぶ際には、そこまで狙っていたわけではなかったのだが、図らずとも、生涯を通した自身の夢にも直結する修行が積めそうである。

 

頑張ろう。以前と比べてどんどんと週末が待ち遠しくなってきた。本格的に働きはじめた証拠であろう。