いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

歩く、それは脳の遊び時間

ダイエットではじめたウォーキングをまだ続けている。

 

会社帰りに、1駅前で降りて家まで歩くのだ。時間にして約30分。もちろん健康維持と体力作りが目的だったのだが、最近では別の効用も感じはじめている。

 

歩くことで頭を整理できるのだ。電車の移動中には本を読むことができるし、ちょっとした空き時間ではスマホを見てしまう。しかし、歩くときは手に何も持てないので、強制的に脳が手持ち無沙汰となるのだ。単調な歩く行為も、謂わゆる“自動操縦”モードで事足りる。

 

30分間やることのない脳は、頭の中に置かれているモノゴトで遊びはじめる。組み立て途中だった積み木を綺麗に重ね合わせたり、もやもやしていた事柄を納得できる形に整頓したりしはじめるのだ。

 

また昨日は、あるアイデアが頭に浮かび、それを際限なく広げていくといった遊びをしていた。ひとつのキーワードから予想以上に発想が広がったので、楽しかった。今朝もその一端が、別の形で夢にでてきたほどだ。

 

歩くと、自然の音や光景が入ってきて、感性が高まり、生き生きとした言葉が沸いてくる、といったことはよく文筆家などが口にするが、私はそうではなく、歩くと内省に入り込むタイプのようだ。(イヤホンもしてるし)

 

なんだか、それはそれでもったいない気もしないではないが、実際的な効用としては、内省の整理ができるだけでもありがたい。でも入り込みすぎて、注意散漫になりケガだけはしないよう気をつけようと思っている。

 

それにしても、どの行動がなんの役に立つかは、やってみなければわからないものである。そういう意味では、『何か新しいことをはじめる』という行為は、広く推奨されるべきことなのかもしれない、と改めて思った。