いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

いきぐるしい

コホッという乾いた音が聞こえた。

 

思わずそちらへと視線を走らせる。音の出所はふたつ向こうに座っている老人だった。プリントアウトした小難しそうな文献を読みながら、彼は口に手を当てていた。

 

不自然にならないよう、ゆっくりとその老人から視線を外す。周囲を見ると、私と同様に何人かがその老人に視線を向けていた。むせて咳が出ることくらいあるだろう。そんなことくらい皆もわかっている。それでも、防衛本能により反射的に警戒してしまうのだ。

 

普段なら小さな咳の音なんて聞こえない。しかし、通勤時の電車の中は張り詰めた静寂に包まれていた。皆が皆、息を潜めるようにしてその場をやり過ごしている。

 

私もマスク越しに浅い呼吸をする。生命を維持するのに必要な最小限の酸素だけを吸うイメージで。電車に乗ってからというもの、まだどこにも手で触れていない。

 

車両についた電子掲示に目をやる。職場の駅まであと2駅だ。もう少しでここから解放される。ただ、次の駅では多くの人が乗り込んでくるだろう。そう考えていた矢先、案の定『梅田駅』で大量の人がなだれ込んでくる。


車内の息苦しさが一気に上がる。漂う空気が急に淀んだように感じられた。あと1駅。そのあいだ息を止めておこうか。そんな考えまでが頭を巡り出す。

 

遂に目的駅についた。扉が開くと、ビジネス街のため多くの人が降りていく。私も席を立ち、人の波へとついていく。必然的に人と接触する場面も出てくるのだが、手のひらだけはなんとか守りきる。下車すると、人の流れに沿って改札までの道を歩く。

 

リュックを背負い直し、ポケットから消毒用の除菌スプレーを取り出す。手のひらにシュッシュッとプッシュし、両手を擦り合わせる。カードを触れ改札を抜ける。

 

人との間隔が空くと少しだけ安心できた。ビルについたらまずは手を洗い、何度もうがいしよう。そう心に決め、私はビルへの道を前のめりになって歩いた。

 

昨日は1週間ぶりの職場復帰だった。その間外出を控え、ニュースでコロナの報道ばかり見ていたので、久しぶりに乗る電車、人混みがとても怖く感じられた。

 

来週からはまたこの生活にも徐々に慣れていくのだろう。しかし、それはそれで、少し怖い気もしている。