いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

静寂が寝そべる部屋の中で

寝そべった紙パックの上にちろちろと熱湯を注ぐ。

 

もわもわと白い煙が昇り、視界が白むと同時に、優しいはちみつの香りが鼻孔の中へと侵入してきた。

 

私は上機嫌になり、映画を止めてポメラを開こうと心に決めた。こんなにも穏やかな気持ちで文章と向き合える機会をみすみす逃す手はないからだ。把っ手までが熱いマグカップを静かにテーブルの上に置くと、ポメラを開き、読みかけの文庫本をそのわきに置いた。

 

ふと目線をあげると、リビング中央の煎餅布団で大の字になって眠っている息子が、寝息を立てている。そのさらに向こうには彼が繋げた木製の線路が置かれ、磁石で繋がった三つの車両と、それに轢かれそうになっている仁王立ちの人形が、息子が目覚めて戻ってくるそのときをじっと待っているかのように見えた。

 

実に静かだ。

 

ポメラのキーボードを叩く手を止めると、エアコンが風を吹き出すささやかな音しか聞こえない。それかたまに遠くで聞こえる電車の通過音。紅茶をすする音が大きくて、思わずびっくりしてしまったくらいだ。

 

妻と娘は友人宅にお呼ばれしている。ゆえに男ふたりで祝日の昼下がりを過ごしているのだが、想像していた以上にリラックスしてここまでを過ごせていた。空気をいれて膨らませたビニール袋が、いつまでも地に着かずに、風に乗ってぷかぷかと漂っているイメージ映像が頭の中で意味もなく繰り返されていた。

 

映画を観て、小説を読み、紅茶を味わう。ひさしぶりに腰を据えて文化的悦びの中に身を置けているような感覚が得られていた。そしてこのように意味を成さない文章を弄ぶ楽しさよ。究極の贅沢といえる。ただただ文字を羅列させていく作業が心地よく、読み返した際のリズムが気にくわなければ、何度だって言葉を刈り込み、別の単語と入れ替える。

 

平日に従事するコンサルワークでも言葉と向き合い、何度でも推敲を重ねる場面がある。しかし根本的に向き合う観点が異なっている。あちらは合理性に重きを置くが、こちらが重視するのはハーモニーだ。前者は誰しもに善し悪しの判断ができるのだが、後者は独善的、つまりは自己満足に過ぎないのである。

 

ここまでを書いて再び文庫本を手に取ろう。今の穏やかな感情を真空パックのように書き記しておくのだ。