いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

頭が良いのことだけが取り柄の私

自分の取り柄は頭が良いことだけだな。

 

こんなことをこれまで何度も考えてきた。こんな馬鹿なことを考える奴が頭が良いわけがない、とメタ的に捉えるとわかるのだが、本人はいたって本気でそう考えている節がある。

 

なんでも話せる妻に向けては、実際に口に出して発言もしてしまう。半分は卑下する調子で、もう半分は鼻につく感じで。

 

こんなところも含めて、改めて俯瞰的、客観的に自分のことを捉えると、なかなか変わった奴だと思ってしまう。こんなことを言うと、自分を何者かだと信じている痛々しい厨二病のようにも聞こえてしまうが、まあ、そのことは甘んじて受け入れようと思っている。

 

他人に比べ自分が、なにも特別な存在だなんて思っちゃいない。むしろ、平々凡々な奴だとさえ思うのだが、自分においての自分は、誰しもが換えのきかない特別な存在なわけである。

 

ゆえに、そんな自分の輪郭をできるだけ実態に近いように、世間側から見えている姿で捉えようとすると、タイトルのような結論にいつも着地するのだった。

 

私が人並みに得意としてきたこと、そのすべてが、結局はひとつの取り柄、私の源流に帰結するのである。

 

スポーツがそこそこできたのも、対人関係で苦労がなかったのも、受験や就職で失敗しなかったのも、いま家族で幸せに暮らせていることも。

 

ただそのぶん、小さな失敗、辱め、非礼も数多く積み重ねてきている。それは取り柄の裏返しでもあり、それしかないことの証左でもあるのだ。

 

脊髄反射的には心が働かず、頭を通して考えたときでないと、人への気遣いや慮った行動が取れない。論理的な判断に比重を置きすぎて、共感すべき相手の感情にうまく寄り添うことができない。

 

そんな私の欠陥に、現在進行形で被害を受けているのは妻であろう。ふと立ち止まったとき、こんな私と生活をするのはさぞかし大変だろうなと、他人事のようなことを思ってしまうときがある。

 

そのたびに、そんな妻にはこれからも、変わらず感謝と愛情を示し続けなければなあ、と思うのであった。さすがにこればかりは、頭を通さずに心から芽生えた真の感情であると、私は信じているのだけれど。