いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

街とその不確かな壁

村上春樹の『街とその不確かな壁』を読了した。
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発売日に購入し、味わいながらにちびちびと読み進めた。度数の高いウイスキーをゆっくりと流し込むように。そのようなお酒は飲んだことはないのだけど。

 

冒頭から一気に引き込まれ、村上の新作長篇を読める喜びを噛みしめた。気に入った書き出しの部分については、そこだけでも読むよう妻にも勧めてしまったくらいだ。これぞ村上節という、氏の魅力が詰まった一節であると思っている。

 

 きみは黄色いビニールのショルダーバッグに、低いヒールの赤いサンダルを無造作に突っ込み、砂州から砂州へとぼくの少し前を歩き続けていた。濡れたふくらはぎに濡れた草の葉が張り付き、緑色の素敵な句読点となっていた。ぼくはくたびれた白いスニーカーを両手に提げていた。
 きみは歩き疲れたように無造作に夏草の中に腰を下ろし、何も言わず空を見上げる。小さな鳥が二羽並んで上空を素早く横切り、鋭い声で啼く。沈黙の中で青い夕闇の前触れが二人を包み始める。きみの隣に腰を下ろすと、なんだか不思議な気持ちになる。まるで数千本の目に見えない糸が、きみの身体とぼくの心を細かく結び合わせているみたいだ。きみの瞼の一瞬の動きや、唇の微かな震えさえもが、ぼくの心を揺さぶる。

 

本作は三部構成で書かれている。ベースとなったのは著者が初期に書いた幻の短篇小説。その書き直しにあたるのが第一章。第二章からは、今回書き直してみて、村上が必要性に駆られて付け足した部分である。

 

私の感想的には、第一章は心酔するように読み進められた。ここで終わってもよいのではないか、そう思うほどに完成度の高い一章であった。

 

その続きの第二章は、途中で少しばかりの中弛みを感じた。突然の訃報があり、私が数日間、読書を中断したことも影響しているのかもしれない。ただそれを差し置いても、読み進めるのが少しばかり鈍化したような感覚があった。

 

第二章の終盤から第三章にかけては、クライマックスも近づいてきたこともあり、ふたたびページを捲る指に躍動感が漲った。ただ結末としては、予想していたほどの爽快感は得られず、これならば第一章で終わっていてもよかったのではないかと、若干ながらも思ってしまった。

 

この作品を書いた時期は、コロナの自粛期間と重なっており、その影響も反映されているだろうと著者が語っている。もしかしたらそのような閉塞感も意図的にストーリーに取り込まれているのかもしれない。私の読み取る力も貧弱で、重要なメタファーや意図も取りこぼしているに違いない。

 

しかしながら、そのような読後感であっても、本作を読んでいる間中は、未読の村上小説を読める喜びに終始心が満ち溢れていた。果たして今後、あと何作を読むことができるのだろうか。しかもこんなに読み応えのある長篇作品を。次回作も、心から期待している。