いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

文学パパが綴るかけがえのない日常

言葉と歩く日記

多和田葉子の『言葉と歩く日記』を読了した。
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昨年末から読み始め、ゆっくりと、少しずつ、他の本と並行して読み進めていった本だ。タイトルの通り、筆者が“言葉”について感じたこと、考えたことを綴った、日記形式の散文となっている。

 

ドイツ語と日本語に精通する筆者。彼女はそれら両方の言語で小説を発表し、世界的な評価を受けている。この本は、そんな彼女が日本語で書いた作品『雪の練習生』を、自らでドイツ語に翻訳するという、初めての試みに取り組んだ期間に書かれた日記らしい。

 

とにかく、彼女の言語に関する探究心には驚嘆してしまった。そして、出会った気付きや感動、それらを伝えようと彼女が用いる言葉たちが、これまたとても素敵なのである。

 

この本を読んでいて、その豊かな表現力に何度唸ってしまったことか。思わずメモをとりたくなるほどに素晴らしい表現たちが、本書の至る処から見つけられた。例えばこういったものだ。

 

文学は、書き言葉が固まって動きがとれなくなった時、話し言葉に身体の動かし方を教わることで元気を取り戻し、生きながらえる。

 

この作品におけるトーマス・マンの文体は、ねばねばして、ねじれていて、腐りかけた林檎のようなところがある。我慢しながら読んでいくと、美少年が現れた瞬間、突如、すっきりした文体に変わる。これが「ほどけ」の快楽である。

 

もしかしたら、これら一部だけを読んでも意味がわからないかもしれない。ただ、その魅力の一端は感じてもらえるのでは、と期待し上記を引いておきたい。

 

さて、このように一言一句読み飛ばしたくない学び多き文章だったので、私は一気に読んでしまわぬよう注意した。毎日、集中して読むことができる章数だけを、じっくりと読んでいった。

 

中には私の語学知識が足りず、理解できなかった箇所もあったのだが、ほとんどは筆者の驚きと感動を一緒に味わうことができた。彼女のように感性が鋭ければ、どんな日常の中からでも、新鮮な発見ができるのだろう。

 

また、彼女がラップへの関心を示していることにも嬉しくなった。私もそうなので、シンパシーを抱く。あの独特で自由な、それでいて韻律という美しいルールで縛られた表現方法には、そそぐ興味が尽きない。

 

とにかく、読んでいてとても楽しい本だった。またいつか読み返したいなと思っている。

 

こんな読み応えがあって、実りの多い日記が書けたならどんなに楽しいだろうか。羨ましくて仕方がない。